みみちゃんの日記

2002年6月17日  

このごろどうも眠い、だるい、いらつく、下腹部が痛むなどの症状があった。
生理不順な私、また遅れているのだろう、きっといつもの月経前困難症だと思って、胃薬飲んだり、頭痛薬飲んだり、かぜ薬を飲んだりして、しのいでいた。
なのに症状がいっこうにおさまらないどころか生理が待てども暮らせどもこない。
まっさか〜と思って妊娠検査薬をもってトイレに入ったら・・・
ぎゃ〜〜〜〜〜〜!!!!!
W杯をみていた夫もさすがに その声に驚き、なになになに。
これよ〜!どうすんだよ〜!
といって、みせた検査薬はしかと陽性反応を示していた。
風邪薬のんじゃった。 胃薬のんじゃった。 頭痛薬のんじゃった。 持病の不安神経症の薬ものんじゃった。 またしても、薬を浴びて私のお腹で赤ん坊が育つ羽目に なってしまいました。 慌てて翌日、会社を午後休んで、産婦人科に行ったら 6週目です、といわれ、証拠のエコー写真をもらった。 そして、高年齢ゆえの癌検診ふくめて、6560円頂きます、と 言われ、頭がが〜んとなった。 車買い換えたばかり。ローンあるよ。 ゆりこ、喘息もち。今日も小児科に薬もらいにいくのよ。 まだ宇宙人語だし、おむつもとれていないし、 哺乳瓶だってまだ朝ミルクに使ってる。 どこにもう一人食わせる余裕があるんだ。
それに私、4月に会社復帰したばかり。 なんていえばいいんだ。
また1年ちょっと休みます〜だって? 虫がよすぎるかも。
夫、甘えん坊。子育てに協力的な方とはいえ、 失敗ばかりで、監視していないと何やらかすかわからない。  
あああ、どうじよう。   頭ぼーっとしているうちにも時間はたつ。
保育園から、ゆりこちゃんが手足口病の疑いがあるから 迎えにこいと電話がある。 慌てて迎えに行ってその足で小児科にいき、 疑いをはらし(単なる大量虫さされだった)、 喘息の薬をもらい、 だっこせがみに応じてだっこをしてあげ、 うちに帰った。
それからも、洗濯物、夕食の準備でせこせこと 動き回っていたら、急に下腹部が痛みはじめた。
まずい。 これってやりすぎ。
今の時期、腹部に力の入る仕事と過度のストレスは ダブ−。流産になってしまう。
このときほど、私って妊婦だったんだ〜と感じたことは なかった。
ゆりこのだっこせがみを避けて泣かせっぱなしにして 横になり眠った。
夕飯のしたくもしなかった。 ゆりこもいつのまにか泣きつかれて寝ていた。
夫が帰ってきて、ようやく事態がつかめた彼は 妊婦さんはじっとしていなさい、といって 勝手に食べてくれた。
 
2002年6月19 
 
早速、仕事場へ行くための時間帯を早めて、その分寝る時間を早くした。
今はまだお腹がへこんでいるからいいが、お腹が目立ってきたら満員電車は無理だ。
そのため以前よりも40分早く家を出ることになった。
まだ目覚めぬゆりこの顔にキスすると夢の中でばいばいしてくれる。かわいい反面悪いと思う。
しかし、この生活時間帯ずらしは正解だった。
今日、仕事の帰り際、お腹がきゅうっと痛む一方、生臭い魚のような生つばがではじめ、
昼間に食べたトマトナスベーコンスパゲティを吐いたのだ。
吐いた途端からだが震えてきた。
ゆりこを妊娠したときも、やはりレストランの人前で食べたばかりのトマトナスベーコン
スパゲティを吐いたからだ。
そのときのはずかしさとみじめさがよみがえってきたのだ。
慌てて夫にメールを出して、震えを止めた。
今回も悪性の嘔吐で会社を休むのか?
そんなことはできない。今回はゆりこがいるのだ。
必死につばをのみこみ、夕食を減らした。結果、頭痛がひどくなった。
でも、実家の母が週一回きてくれて家事とゆりこの世話をしてくれるので少しは楽だった。
こうして、つわりとの闘いが又はじまった。

2002年7月3日  

不安だ。とにかく不安だ。 原因不明の熱、お腹がじんじんちくちく痛む、 その上、胎のうが大きくなっているっていうのに、 全然みみずがエコー検査の写真に映らない。 又、絨毛性血腫が子宮にできているから 出血するでしょうなんて先生がいうから ますます不安。 おかげで、飲まないようにするはずの 安定剤の量は一日3回から4回に増えてしまった。 げろ吐くとゆりこが心配するから飲んで 吐くのを止めているのだ。 それにしても、昨日の夜は最低だった。 ゆりこは何を思ったのか、 夜泣き1時間。 喘息か?とびひか? かいいよおおおお、いだあいいいよおお。 ぶ〜ぐ〜ぶ〜ぐ〜(お茶、だっこ、お茶、だっこという意味)。 うるさくてたまんなくてついにお腹がきりきり痛んで 身動きできなくなってしまった。 どうなっちゃうんだろ〜。 今度の健診は13日。 そのときにみみずくんに御目見えしなかったら どうするのだろう。 稽留流産? 胞状奇胎? ああ、不安だあ。

2002年7月5日

夜中激しい動悸と不安に襲われてとっくに夢の中にいる旦那に抱き着いてわ〜わ〜泣いた。
赤ちゃんが死んじゃう、赤ちゃんが死んじゃう!!!
旦那はねぼけながらも、大丈夫だよと言ってくれたが、私の気持ちはおさまらなかった。
仕方なく旦那は言った。明日、診てもらうか?うん。
結局夜中の3時半からずっとだんなの手を握り締めたまま起きていた。
 
2002年7月6日
 
家族3人で産婦人科にでかけた。私はずっと待合室でおろおろしていた。
安定剤飲んでいるのにどうしてだろう。
エコー検査がはじまった。
ゆりこのときも診てくれた女の先生、じっと画面をみつめながら、なんども私の子宮内をチェックする。
そして小さくもはっきりした声でいった。
 
「見えないね。。。もう見えないといけないんだけど見えない。」
「残念ですが、流産です。」
 
一瞬あたまが真っ白になった。
 
ついて出た言葉は「やっぱりですか・・・・」
 
涙は出なかった。
 
あまりのショックで何を言い出すのか笑いながら、
「そうなんじゃないかと思ったんです。見えないもんね。ああ。」
助産婦さんたちの顔も苦笑いで無言。
「話がちがってきましたからまた呼びますから待合室で待っていてね」と先生言った。
診察室の扉を閉めてだんなの顔をみた途端、
顔がゆがんで涙がこぼれてきた。
指でばってん印をつくって、意味わかるよね?とだんなに言った。
だんなは目頭をおさえながら、黙りこくってしまった。
何も知らないゆりこだけがミッフィーちゃんの絵本を読んでとせがんではしゃいでいた。

また診察室に呼ばれた。

「だってまだつわりあるんですよ、お腹だって痛いし、どうして・・・・?」

「関係ないのよね、流産なってもつわりあるのよ。」

そういって、先生はてきぱきと助産婦さんたちと流産措置手術の日程を決めていった。
私の流産は胎児が子宮に残ったままでなんら出血がない状態の流産で、
稽留流産というものだった。
このまま放置しておくと、死んだ胎児とその関連の血液が凝固して場合によっては
ガンに発展することもありえるので、早期に中身を出す手術をしなければならない。
なんだかよくわからないまま、手術の日程は5日後に決まった。
眠ってしまう麻酔かけるからね、その承諾を得たいのと、術後1週間の安静が可能かどうか、と先生言った。
全身麻酔じゃないならいいです、といってから、会社に休みを報告するので、診断書を書いてくださいと
言った。
そして、ゆりちゃんは延長保育に預けてだんなにお迎えをしてもらうしかないなと、考えた。
泣いてばかりいられないのがつらいのだが、ゆりこの母でもあるのだ、私は。
その後、血液検査をして、手術承諾書を手渡され(当日にもってくることといわれ)、
簡単に助産婦さんの説明を受けた。
待合室で説明するわけにはいかないので(他の妊産婦さんたちを不安がらせるから)、
助産婦さんたちのまかない室に通され、そこではじめてわ〜わ〜泣いた。
「かわいそう、かわいそう、ひとりぼっちであの世に自分からばいばいしちゃうなんて。
後姿がさみしそう」
「でもね、まちがえないでよ。あなたがわるいんじゃないからね。誰もわるいんじゃないからね。
わかった?」
「うん、うん」
「じゃあ、また元気になってきてくださいよ、待ってますよ。」
そう言って、助産婦さんと別れ、だんなのもとにもどった。
 
その日は新しい車にオーデイオ製品をとりつける工事をする約束を店としていたので、
ぼーっとしたままでいながらも、約束の時間を気にしつつ車に乗り込んだ。
そしたら、だんなが泣き出した。
大きなばってん印をもらったみたいだ、といった。
ちがうよ、誰も悪くないんだよ、そう助産婦さんが言っていたんだから。ね。
私も自分を責めたくなるけどやめようよ。せっかく私たちの為に旅立った赤ちゃんに申し訳ない。
それから焼肉やでボーっとしながら食べてオーデイオをつけてもらった新車を返してもらい、
ふと旅行のことを思い出した。
新車を買ったお祝いに箱根に旅行しようと決めていたのだ。
でも、内容は変わった。亡くなった赤ちゃんの弔い旅行になった。
急いで銀行でお金をおろしてとりあえずの衣服をまとめて宿を電話予約して
箱根に向かって高速にのった。
道中、二人とも涙が出るだけでなく、道をあちこちでまちがえて困ってしまった。
でも、それが自然なのかもしれないと思った。
早々に外食を済まして予約したペンションについてゆりこを抱いて早速露天風呂に入った。
ゆりこにはなんともいえないうすぐらい露天風呂が怖いらしく終始泣いていた。
部屋に戻って、二人ともしこたまお酒を飲んでつらさを紛らわせた。旦那はビール、私は赤ワイン。
次第に酔いがまわってきてゆりこが寝るよりも先にダウンしてしまった私。
悲しいく忙しい一日だった。
 
2002年7月7日
 
全く気がつかなかったのだが、この日は七夕。でもあいにくの小雨。
とりあえず楽しもうということで、小雨のなか、朝から美術館めぐりをした。
旦那は道中言った。
「考えて見たらさ、赤ちゃん、名前ないんだよね。名前つけてあげようよ。」
う〜ん、とうなってから私は一言。「みみずちゃん。」
だって、ずっとみみずちゃんと呼びかけていたから。
「それじゃあちょっとかわいそうだから、みみちゃんでどうだ?」と旦那が言った。
「そうだね」と私はうなづいた。
そして、みみちゃんの形見となるようなものをこの旅行で買いたいなと思った。
いずれ、ゆりこが大きくなったときに言いたいな、と思う。
あなたにはみみちゃんという弟か妹がいたのよ、すぐに天国にいっちゃったけどね、と。
途中、ガラスの森というところで、大きさ2CMぐらいのペンギンのクリスタルガラスの置物が目に止まった。
旦那にも見せて、みみちゃんらしいね、と話して、買った。
他にも手作りガラス小物に夫婦ともにチャレンジして、キーホルダーとネックレスをつくった。
これでみみちゃんのことは忘れないだろう。
うちに帰って紙粘土でつくった3人の親子像の横にペンギンをそっと置いた。
みみちゃんは我が家の一員となった。

2002年7月8日

どうしても気が重くて、会社に行けなくて会社を休んでしまう。
ずっと朝満員電車を回避して通勤していた意味はなんだったのだろうか、と思うと
身体が動かなかったのだ。
外はざーざー雨。
ずっとふとんにくるまって寝ていた。
どんなに安定剤を飲んでも気が晴れなかった。
吐気はまだある。下腹部も痛い。熱っぽい。
本当に流産なんだろうか?
そういう疑問がふつふつと沸いてきて気になる。
義母にもセカンドオピニオンを聞いてみたらといわれていた。
思いきって、産院に電話して、どうしても流産であることが信じられないので、今一度エコーで診て見たいと言った。気になるなら、エコー検査をしてから先にすすめるかどうか考えましょう、と医師は言ってくれた。
ありがたかった。そして、ちょっとだけ不安が解けた。

2002年7月9日

がんばって会社に行く。
淡々と医師の診断書を見せて上司に了解をもとめた。
上司もただ「そうですか。わかりました。1週間の休みなんだね。了解。仕事適当にやっておくから。」
それだけで、あとは何も言わなかった。
ことを大沙汰にしないで、何も詮索しないのがうれしかった。
黙って淡々と仕事をさせてもらえたのがありがたかった。

2002年7月11日

予定通り9時半に会社を休んでくれただんなにつきそわれて産婦人科に行った。
ゆりこは保育園に行っている。
周り中、大きくなったお腹をさする妊婦さんたちばかり。
ちょっとうつむいてしまった。
エコー検査を今一度してもらった。
だんなにも診てもらった。
やはり空っぽの子宮と胎のう。
先生は言った。「6週間で成長が止まっていますね。」
「10週だったらもうエンジェルリングをつけた胎児がみえているはずです」
と壁にはってあるサンプル写真を指差した。
6週?じゃあ、妊娠発覚してからすぐに死んでしまったってこと?
なんのために私のお腹に宿ったのだろうという疑問がますます大きくなってしまった。
先生が「いいでしょうか?」と念をおすので、
夫婦そろって気が抜けたように「はい、いいです。手術うけます」と答えた。
 
それからは、だんなは外に追い出され、私は子宮口を広げるためのラミナリアを
膣に入れられた。猛烈に痛かった。
すぐに横になりたい気分になり、空いている病室に通してもらい、そこで横になった。
だんなに手をにぎってもらった。
「はじまっちゃったね」
「俺、もう一度エコーみせてほしいっていいそうになったよ。」
「でも、1週間前と胎のうの大きさ全く変わっていなかったもの。動かぬ証拠だよ。」
そういって、二人は読書をそれぞれはじめた。3時間たった。
私は今日手術が終わるまでいっさいモノを口にしてはならないのでお腹がすいてきてたまらなくなってきた。
なのに、だんなは昼食を外で終えて病室に帰ってくると、その食べた内容をおいしそうに並べ立てた。
むっとした。
 
そんなとき、助産婦さんが入ってきて、別室にうつり、筋肉注射をするから我慢してね、と言われた。
注射ははじめは痛くないのだが、どんどん痛みが増して、さすがに注射慣れしている私も「痛い!」
と叫んでしまった。よくもんだ。でもあざが残った。
助産婦さんは言った。
「これは基礎麻酔。リラックスさせるために打ちました。もうすぐ眠くなると思うけど寝ていいからね。
麻酔が効いているうちに痛みもなく手術終わるから心配しないで。」
1時45分、手術室に移った。
隣の分娩台でいましがた女のこの赤ちゃんが誕生したばかりだった。赤ちゃんは秤の上にのせられて
泣いていた。カーテンごしのお母さんは疲れているがうれしそうな声で、かわいい、かわいい、と連発していた。
ああ、私もゆりこを産んだときそうだったな、と思った。
いいなあ、赤ちゃんかアと思い浮かべている最中も、助産婦さんは私の手をしばりつけて麻酔の点滴の
針を腕に刺しこみ、鼻に麻酔のチューブをあてがった。もう何も心配することないのよ〜という助産婦さん
の言葉がかすれはじめ、ものの数分で私のまぶたはとじた。かろうじて担当の女医さんの、じゃ、はじめるわよ、
という声が聞こえた。そこで私の意識はなくなるんだと思っていた、が、とんでもない!痛いのなんの。
ひっかきまわしてえぐりだしている感覚がまるごとわかるのだ。痛い、痛い、痛いよ〜とずっと叫んでいた。
でも、その叫びはむなしく、うめきにしか聞こえなかったらしい。なんつう麻酔だ。
半意識のままで痛みをこらえていた。
手術は数十分で終わったように思われた。その後も、私はずっと叫んでいた(周りではうめきにしか聞こえない)。
 
お腹痛いよ〜お腹痛いよ〜痛いよ〜痛いよ〜!!!!!!!!
 
どうやって運ばれたのか知らないがいつのまにか病室に移され、そこで異常なまでの子宮収縮の痛みに
こらえながら、うつらうつら眠りに落ちて行った。今度は本当に疲れて眠った。
猛烈な尿意を感じて、目がさめると、だんなは室井滋の本を読んでくすくす笑っていた。
男はいいよな、こんな痛い思いしなくていいんだから!と思ったが、まだ話せるほど立ち直っていなかった。
陰部にはりつけたガーゼをとるからトイレに行くの待っていて、と助産婦さんに言われたらしいが、
私は「もう、もれちゃう、トイレ、おしっこ!」といって立ちあがろうとして倒れこんでしまった。
助産婦さん慌てて、私を寝かせて、ガーゼをはがしてくれた。
これでトイレに行けると思って立ちあがろうとするが全くだめ。でも、もれそう。
あきれかえった、だんなに抱きかかえられながらトイレにようやくたどりついた。
そして、トイレのあとまた昏々と眠ってしまった。
それから起きたのは、5時半すぎ。だいぶ頭のぼんやりとしたものは晴れ、足取りもしっかりしたように
思われたのと、ゆりこの保育園のお迎えの時間が迫っているので、ふらふらしつつ着替えて、
産院が出してくれた紅茶とクッキーを食べて、帰る準備をした。
 
「あ〜おわちゃったんだ。」
「もう赤ちゃんはお腹にいないんだ。」
そうふらつきながらつぶやいた。
だんなもうなづいた。
「おわっちゃったんだね。」
 
だんなが会社を休んで車で移動してくれて本当にありがたいと思った。
その夜、だんなは慣れぬ手つきで、肉南蛮うどんをつくってくれた。
うまかった。
さみしさとうれしさがないまぜになって思わず泣き、久しぶりに赤ワインを
しこたま飲んで酔って寝た。

もういないんだ〜!みみちゃ〜ん

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