おおきくなれ

おおきくなあれ(はじめての出産育児)

<誕生する前の話>

〜決意〜
 
あれは2000年の正月あけて早々のこと。
なんか気持ち悪いのが続いていたので、まさかと思って妊娠マーカーを使って見たら陽性反応の赤い線が出た。
夫に早速電話した。夫は仰天して、食べたばかりのラーメンぎょうざを道端に全部吐いてしまったそうな。
避けたはずなのに?
2人で会社休んで、近所の産婦人科に行ったら、おめでたです、と言われた。
なんでそう簡単に、おめでただなんていうんだ、と内心思った。
というのも、当時、私は精神安定剤を服用していたから。
ただでさえ、妊娠初期は、風邪薬、胃腸薬を飲んではだめ、というではないか。
それに私は三十路になってからかなり時間がたっていた。
いわゆる丸高(年齢とともに妊娠はハイリスクになるのだ)。
素直におめでたいと喜べなかった。
先天性の障害をもった子供が生まれたらどうしようかと二人して悩んだ。
恩師の神父さんに相談した。
子供は神様の授かりものだ、人がどうこうするものではない、と言われた。
確かにそう。それに2人とも子供がほしかった。
だから、障害があっても受け入れよう、ということで、妊娠を続けることにした。
当時の二人にして見ると、それは重大な決意であった。

 

〜吐く女〜
妊娠続行すること決めてからが大変だった。
食べても何も食べなくても吐きつづけたのだ。
毎日、会社の便器におえっ!道端の木の根元におえっ!レストランの食事中に食べたばかりのものをおえっ!
電車や車に乗ってる最中におえっ!風呂場でのぼせておえっ!ねてもさめても風呂桶と携帯用のビニール袋は
必須アイテムとなった。
夫はそんな私をみて、黙って吐物を片付けてくれた。
幼い頃から吐いた覚えがとんとない私は、あまりにもひどい嘔吐に情けなくなってきて、何度もおいおい泣いた。
人間、吐くのが当たり前という事実に慣れるのにかなり時間を要した。なにせ、陣痛室に入るまで私は吐き続けていたのだから参った。
血反吐も出るほどの嘔吐だったし、嘔吐で疲れ果てて便器に頭を乗せて小一時間眠りこけることもあったため、会社は二ヶ月間休みとなり、毎日通院点滴をして体力を補った。
点滴したあとも病院前で吐いた。
当時あまりにも嘔吐がひどいので、点滴の針をさしてくれる助産婦さんにばかなことを尋ねた。
「なんだか胎児も吐いてしまいそうだよ・・・・」
もちろん、助産婦さんは「そんなことで流れないよ。ちゃんとしがみついてるから心配なさんな」と笑ったけど。
本当に吐いてしまうのではと疑ったんだぞ。
ちなみに嘔吐がいちばんひどかったときに食べられたのは、メロン、かぼちゃの煮物、と、なぜか、増田屋の肉南蛮うどん。
おかげで、うどんにはうるさくなった。
妊娠後期になってからは、吐きながらも、一生懸命食べた。
一番の消費量は恐らくトマトだろう。
ひたすらトマトにかじりついていた。
出産予定が夏だったからなのかもしれないが、今、同じ量のトマトを食えといわれても無理だろう。
だって一日8個は食べていたもの。

 

〜エイリアン〜
 
妊娠も6ヶ月、そろそろお腹がせりだしてくる頃、それはやってきた。
ごにょごにょ。
腹の上部あたりの中でみみずがうごめいている感じ。そう、胎動だ。
妊娠2ヶ月からずっと毎週末、エコー検査の写真をもらっていた私、あの小指の先っちょぐらいしかない奴がどんどん私のお腹で大きくなって支配しはじめているのを知っていた。
吐気をもようすのは、体が異物を拒否するためだ、といわれるが、当時の私は悲しくもお腹の子が吐気をつくっている要因だと思っていて恨み、異物以外には考えられなかった。
映画「エイリアン」でみた、人に寄生し、その腹をつきやぶって生まれ出るエイリアンの子のように恐ろしい怪物なんだと思い、吐いて苦しいときは「このエイリアンめが〜」とつぶやいていた。
お腹がふくれるにつれ、夜中から朝方にかけて、ぼこぼこ羊水の中で手足をばたばたする奴にも
「くそ〜眠れないじゃないか、やっぱりエイリアンだ」
妊娠後期のスイカだまのお腹になったときは、いよいよ図体が3000gを超え、羊水で泳ぐこともできなくなった奴は薄い腹の壁に沿って手足をむんぎゅ〜とつっぱり、どうにかして回転しようとした。
すると、はっきりとぐうの手の形が腹の上で螺旋を描いた。
そのときも、「やっぱりエイリアンなんだ」と、ことあるごとに、エイリアン、エイリアンと言っていた。
ひどい母だよね。胎児は母のいう言葉をお腹で聞いているというのに・・・。
でも、それだけ、次から次へと起こる生理的変化についていけず、恐怖となって、恐怖の象徴がエイリアンという言葉だったのだ。
〜女医じゃないとだめなの?〜
 
私は、はじめて受診した産婦人科医院の男の医者が、妊娠を続けるかどうかについて、とても冷たい物言いをしたので、その後、その医者に行くのをやめてしまった。
だって、おめでたです、と言ったすぐあとに、中絶するかどうかは二週間以内に決めてください、なんて言ったのだから。
ただでさえ、妊娠続行するかどうか悩んでいたのだからその言葉はぐさっときた。
又、当時の私は夫以外には男性不信の気があった。
でも、妊娠を続ける決意をするとなると、嫌がおうに産婦人科の世話にならないといけない。
きっと男だから女心がわからないのだと思った私は、今度は女の医者を選んだ。
果たして、やさしかった。
げろげろ吐きつづける私に、ずっと点滴して、エコー検査写真をみせては、赤ちゃん、ちゃんと生きてるよ、と言って励ましてくれた。
しかし、そこの医院は分娩施設がなかったので妊娠22週後は別の医者を探さなければならなかった。
できれば女医さんを、という願いもむなしく紹介されたのは、男の医者で評判はいいというところだった。
その男の産婦人科医院に夫に付き添われて行ったとき、私は待合室でがたがた震えてビニール袋に何度も吐いて泣いた。
挙句の果てには夫に抱きつき、
「男の医者こわいよ〜、帰る〜!」
その姿にあきれた看護婦さんは言った。
「女医さんもいるわよ。けどね、院長先生もやさしいんだから。あんた、お母さんになるんだからもっとしっかりしなきゃ、ほら!」
何?女医がいる!?それも土曜日に来てる。がってんだ。仕事行きながら通える。途端に涙が止まった。
それから土曜日、必ず夫に付き添ってもらい、女医さんに受診した。体型測定後、エコー検査する時にも必ず夫に画像をみてもらい、立会い出産に備えてもらった。
私は至極あたりまえのことだと思っていたのだが、最後の検診までかかさずエコー検査につきそっていた旦那様はわが夫だけだったようだ。
だから、私は相当な怖がりで弱虫だと、院長である男医にも担当の女医にも助産婦・看護婦さんたち全員にレッテル貼られていた。
だが、どうしても、会社に提出する診断書を書いてもらうために院長とお目見えする機会があった。
あっけなく怖い存在でなくなった。やはり、男でも女心がわかる人もいるってことか?
分娩はもちろん院長の手で行われ、赤ん坊を抱いて「ありがとうございます」と、にこにこと院長に挨拶したとき、女医さんから言われてしまった。
「あら、男の医者はだめだったんじゃないの〜?まったくもう心配させたんだから。強くなったもんだね。」
いや、その、あの時は女医でないとだめだったんです・・・・という、いい訳はもはや通用しなかった。

 

〜てんちゃん と ゆりこちゃん〜
 
なんか暗い話ばかりしたが、一方で、エコー検査でもらえる写真をながめては、お腹の子の成長を喜んでいたのも事実だ。
みみずがかえるになって、かえるが人間の形になって、目や手足がはっきりしてきたとき、そろそろ名前を考えなくてはいけないね、と夫と話し合った。
でも、男か女かもわからない時点では何も思い浮かばなかった。
夫は勝手に競馬の馬の名前をつけようとするし、名づけの本を買ってきてみても、沢山ありすぎてわけわからない。
耳も聞こえている頃だろうのに声をかけるのに名前がないとかわいそうだと思った。
そこで、またまた一生懸命考えて、てんちゃん、と呼ぶことにした。天からの授かりものだから、てんちゃん。
これなら、男であろうと女であろうと問題ない。
でも、あまりにもぴったりな幼名なものだから、名づけが尚更困難になった。
女の子だとわかってからは、天子ちゃん、典子(てんこ)ちゃんっていうのはどうだろう、とまで考えてしまった。
あまりにも大変な作業だったので、名づけを易者に頼むことも考えたが、生まれくる子にはじめてのプレゼントが他人に助けてもらったものというのはいかがなものかと思い、結局二人で決めた。
字画も音もまあまあだと思うが。
命名、優理子ちゃん。
なんとも単純明快な意味だ。
よくいえば、やさしく理知的な子であれ、わるくいえば、すぐれて理屈っぽい子になれ。
音では、百合の花のように清らかな子であれ。
そして、夫とはじめて出会った新百合ヶ丘にちなんで。
あと、私としては、呼びやすいのがいいと思ったから。
自分の名前が呼びにくくて、あだ名がなかったことからだ。
こらっ、ゆり!は〜い、ゆりちゃん。ゆりっぺ。ゆりたん。ゆ〜り。ゆりゆり。ゆりこちゃん。
これだけあれば、十分だろう。
かくして、わが子は二つの名前を授かった。果たして、大きくなったとき、わが子は自分の名前をどう思うだろう?

 

〜異常って?〜

妊娠3ヶ月のエコー写真、羊水ができはじめてる

 
高齢出産になると羊水穿刺というものをやるかどうか尋ねられる。
安定期に入る頃、子宮に羊水がたまりはじめ、その中で胎児は動き回るのだが、その胎児を傷つけないよう、針を刺して、羊水をとり、その中に混じっている胎児の遺伝子染色体に異常がないかどうか、調べるというもの。
異常とは具体的にいうと、ダウン症などの精神遅滞。
これはある意味で差別である。
だから、医師はその検査を薦めることはせず、必ず、夫婦の意見と決定を尊重する(いわゆるインフォームドコンセント)。 
異常であることが認められたら、堕胎するのか?
私は妊娠発覚時、精神安定剤を服用していた。
その半年前までは睡眠薬を飲んでいた。
だから、高齢以前に異常となる可能性は高かったのではないかと思う。
でも、子宮に針を刺すことは胎児に触れなくとも、風船に穴をあけようなものだから流産をひきおこす可能性もある。
その上、検査結果は150分の一の確率で異常だというではないか。
必ず、というわけではないし、その確率を可能性が高いというのか低いというのか人によって取り方が違うだろう。
そんな危険を犯してまでも検査する必要があるのだろうか?
第一、自分たちの子供がどんな形で生まれようとそれを「異常」と思うなら親の資格もなければ、妊娠するための行為をする権利もないと思った。
ダウン症であろうと、手足がなかろうと、わが子はわが子だ。
ここで、私達夫婦は第二の決意をした。
羊水穿刺はしない。
どんな結果も引き受けると。
不安は大きかったがまた一歩、親への準備ができたように思えた。

 

〜落っこちる〜!〜
 
記憶をたどりながらの日記なので前後したが、ついに、真夏、陣痛はやってきた。
それも微弱陣痛というやっかいなもので、10分間隔のお腹の痛みが断続的に3週間続いた。
おかげで、産院にかけこむこと二回。
一度は産院が妊婦一杯で産院近くに住んでいる私は自宅に帰された。
自宅でうんうんうなって夜も眠れないときを3日続けた後、涙声で、ほんとに痛いんですが、と言ったら、
電話の向こうの助産婦さんが、おいで、と言ってくれた。
そして、夫婦そろって、入院。
あれっ?なんで夫まで入院なのか。
夫は夏休みをとってくれてずっと付き添ってくれたのである。
夜昼ずっと付き添ってる夫をみて、かわいそうに思った院長が、特別に夫婦そろって寝泊まりできる部屋に案内してくれたのである。
たまたま、出産間近の妊婦さんが一人もこない閑古鳥状態に入っていたからしてくれたサービスである。
でも、一緒に寝るなんてことできやしない。
私は入院してからずっと汗だくになってめまいしながらずんずんと刺すような痛みに夜中中こらえていたのに、夫は横で簡易ベッドでがーがーいびきかいて寝てるんだもの。
猛烈に腹がたって、「奥さんが一大事のときに居眠りとはなんだあ!このことは一生おぼえていてやる、絶対に絶対に許さないから!」と叫んで寝ている夫をぶったたいた。
そしたら、夫、転げ落ちてまた寝た。
そりゃ、夫も看病疲れで眠くもなる。
だが、おまるの上に座ったようなポーズでまくらをかかえて、ひたすら、助産婦さんのくれた呪文「今あったかいお湯の中につかっていま〜す、ほ〜ら、あたたかい、ずぶずぶ」とイメージして夜中を孤独に過ごすのはまことにつらかった。
そんなにつらいのに、子宮口が開かないものだから困った。院長先生に、これ以上待っていても赤ちゃんも疲れてしまうので、帝王切開するか?と言われたが、断った。
お腹切られるのは嫌だった、痛そうだもの。
じゃあ陣痛は痛くないのかっていうと痛い。
仕方なく、二度子宮に傷をつけて子宮口が開くようにした結果やっと二日後、陣痛が5分間隔になった。
次に便秘していると困るということで、浣腸された。
これには参った。
何も出ず(だって飲まず食わず3日はたっていた)、トイレから這って廊下に出て倒れた。
助産婦さんにかかえられて陣痛室にもう一度はいる。
それでも、陣痛間隔が縮まらないのでついに、陣痛促進剤の点滴をうった。
すると、みるみるうちにひっーひっふーの息づかいが荒くなった。
まだ、時間がかかるから昼飯でも食べて元気つけときなさい、と言われ、促進剤をうつ直前にむりやり食べたのがよかったのか、がんばりが効く。
汗がじゃーじゃー出る。
まだいきんじゃだめよ〜と言われたのに、大便したいような感覚でいきみたくなった。
その途端、ぼん!という音とともに破水した。
それからが速い。
急速に呼吸が荒くなり、大便のでかいのがおしだされるように足の間に降りて行く。
思わず、出ちゃうよ〜!!!と叫んだ。
助産婦さん、叫んだ。まだよ?!え?あらもう頭がみえる。
私、夫はどこ?!連れてきて〜、落ちちゃう、落っこちる〜!!!!!と、叫びつつ、分娩台に大至急うつるため、がにまたでかに歩きして台にのった。
助産婦さんは、まだ落っこちないわよ、と言ったはずだが、1分もたたないうちに、大便、いや、赤ん坊の頭は押し出された。
トイレの詰まりをひっこぬくような道具を片手にしている院長先生の姿が私の足の向こうに見えた。
(出てこないときにすっぽんと頭にくっつけてひっぱり出すための準備。)
赤ん坊とおぼしき両足をぐいぐいとひっぱりだそうとする御年70の助産婦さんの姿が見えた。
ひえ〜と思った途端、一瞬の静寂のあと、おんぎゃ〜という泣き声がした。
そして、なんとまあ、おにぎり型の頭をした真っ赤なしわくちゃ赤ん坊がへその緒をつけたまま、私の顔の横に
やってきた。
それまでの陣痛、分娩の痛みや疲れがふきとんだ。
すかさず手足何本とチェック。大丈夫だった。
不安もふきとんだ。
「ようこそ、ゆりちゃん、この世界に」がはじめてかけた声だった。
その後、1kgもあったレバーのような胎盤をみせてもらい、赤ん坊を出すためにちょきんと切った会陰を縫って、また産湯につかったばかりの赤ん坊を抱かせてもらった。
胸に吸いつくかと思ったが、赤ん坊も生まれるのに疲れすぎたのか、吸い付くことなく、居眠りしてしまった。
夫も抱っこして満面の笑みだった。夕方4:52、まるで、働いている人達の交代(退社)時間を考えて誕生してくれたような感じだった。あともう少しすれば私の誕生日といっしょだったのにな、と夫は笑った。

ゆりこ誕生の瞬間体重3240g身長50.5cmの女の子、優理子の誕生である。

<誕生してからの話>

〜おっぱい〜 
 
ゆりちゃんが生まれて、担当医と手を握り合って喜んだのもつかの間、すぐ先生達ともめた。
先生達とは産婦人科医院の院長、担当医、そして、行きつけの神経科医。
内容は、おっぱいをあげていいかということだった。
妊娠発覚のときにも述べたように、私は精神安定剤を服用していた。
その半年前までは睡眠剤も服用していた。
そして、ただでさえ不安になりやすいのに(不安神経症だから)更に妊娠で生理的に不安になったがゆえにひどかったとも思われる嘔吐の回数を減らすためにも、3人のどの医者も精神安定剤を飲み続けることを薦めていた。母体の精神的安定がいちばんいい環境を胎児に与えるからであった。
しかし、おっぱいをあげるとなると話は違った。
神経科医は安定剤に依存性があることから急にやめると飢えたようなストレスを経験し不安が増加するから無理をするな、と言った。
産婦人科医の院長の意見は、服用してから24時間以内に搾り出してしまえば、安定剤は体外に排出されるからおっぱいはあげてよい。
担当医は、安定剤を金輪際きっぱりとやめるならおっぱいをあげてもいい。
先生方はみな私の体と生まれたばかりのゆりこの両方を気遣ってそのような意見を言ってくださったのだが、結局おっぱいをあげるかいなかを決めるのは私であった。
はじめての親としての責任を感じつつも、母としてどうしてもおっぱいをあげたかった。
でも、安定剤いりおっぱいを与えていいのだろうか。
生んで翌日、本来疲れをとるための半日だったのに、夫に相談することもできず、おいおい悩んで泣いた。夫は
早々に仕事にでかけたからだ。これ以上夫におんぶはできないし、おっぱいをあげるのは私だから。
悩んだ挙句、担当医の言葉を選んだ。どんなにつらいめに遭おうともう二度と安定剤は飲まない。飲んだらもうおっぱいは与えない。そう担当医に告げると、担当医は言った。
「絶対約束よ、いいわね。」
そして、私の手を力強く握った。
私は陣痛室に入ってから安定剤は飲んでいなかった。
まだ出産で興奮しているにもかかわらず、妙に冷静な決意ができた。
では、初乳をあげましょう、と助産婦さんに言われて、ゆりちゃんをおそるおそるおっぱいに近づけると、ゆりちゃんはまだ出産の疲れがとれていないにもかかわらず、吸いつこうとした。
うれしかった。言葉がついて出た。
「吸いつくんだね、吸ってるよ、えらいねえ。」
それから6ヶ月、私はおっぱいをあげつづけた。睡眠時間が二時間おきに断絶されようと構わなかった。
もちろん安定剤のまずに。(もっともおっぱいの出がいまいちだったので半分は粉ミルクだったが)
でも、夫の転職があったりして心の安定が崩れ、不安が募り、がんぱりはそれ以上は続かなかった。
ちょうど離乳食が開始される時期でもあったので、カウンセラーさんの助言もあって、薬を再開した。
神経科医は言った。よくがんばったじゃないか。もう十分だ。私もやれることはやったと思った。

 

 
〜プチ家出〜
 
プチ家出といってもこのごろ流行りの10代の少女達の家出繰り返しというのとは訳がちがう。
産後数ヶ月は妊婦体験者であれば誰でも大なり小なりあることだが、ホルモンの急激な変化により、いらいらや気分の落ち込みといったブルーを体験する。私もご多分にもれず、というか、もとからあった不安神経症が助長される形でなった。
なにせ、「子育てがいやになるときつらいとき」(主婦の友社)なんていう本を買ったぐらいだ。
あんなに待ちに待った赤ん坊の誕生だというのに、授乳も寝かせつけもいっさいがっさい放り投げたくなるのだから、いっしょに住む夫は仰天した。特にうちでは、当時実家の母と犬猿の仲だったし、(今はちがう)、義母は広島。頼る術はただただ週3回一日3時間きてくれる産褥ヘルパーさんのみ。
それも、毎度、違う人が交代でくるし、使う身としては甘えられる状態ではない。あれこれ指図しなきゃ
ならない。だから、毎晩、毎週末、爆発するときがやってくる。
 
「なんであんた寝ているのよ〜」
「だって眠いし、明日仕事だから・・・」
「いいわよね!あんたは仕事していればいいんだから。私は夜中も二時間おきに泣くゆりこの
おむつ替えて授乳しなきゃならないのよ!」
「だって俺のおっぱいからは乳でないもん。仕方ないだろう?」
「だったら、泣いているのをあやすぐらいできるだろ〜が!おむつだって交換できるでしょ!」
「だって起きられないもん。俺だって仕事して疲れているんだ。」
「私だって夜も昼も世話しているのよ。疲れている!でも休む暇ないのよ。寝られない。
自分の時間なんか全くない!」
「昼間いっしょに寝ればいいだろう?」
「そんなことできない!洗濯物あるしご飯つくらなきゃいけないし。それに、それに、自分の時間が
全くない!本読みたい。喫茶店でお茶したい!おいしいもの食べたい。なのになのになんで
こうなるのよ〜〜〜。もっと協力してよ!!!!」
「してるじゃないか。でも夜は起きられないよ。」
「どうして〜〜〜〜〜?!私ばっかり、私ばっかり!!き〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!」
 
物を投げつける。本、クッション、テッシュ箱、人形。
(なぜかあまり硬くないものを選んでるところがえらい)
絶叫が外に響き渡る。なにせ、ゆりこは夏生まれだから、夜は網戸だけで寝ていた。
物投げをとめようとする夫。それに対して私は触るな寄るなと暴れまくり、噛みつき、また叫ぶ。
 
「ぎゃ〜〜〜、殺される〜〜〜〜!!!!!!!!」
 
でも、そんなことを叫んでいたら、誰しも勘違いするか、近所迷惑だろう(と今は思う)。
ある晩夜中の3時にわめいていたら、ついにきてしまった。
警察が。
ご近所の誰かさんが呼んだのだろう。
もちろんドア口で警察官に怒られた夫。
 
「いくら夫婦喧嘩といえども度がすぎると警察も介入しますよ。」
 
と言われたらしい。
さすがの夫も、とりあえず謝った方がいいと考え、
警察が去ったあと、わめき散らして放心状態の私を抱きしめて
 
「ごめんよ、もっと協力するから。痛いことしない。」
 
と言ってくれた。
 
そこでやっと我に返った私はわーわー泣いた。
もう自分をどうコントロールしたらいいのかわからなかった産後一月だった。
 
その後も夜中授乳しながら自分の時間がないことにいらだった私は、
朝を待って、スーツに着替えた夫にゆりこをおしつけ、
泣きながら財布にぎって外に飛びたした。
でも、やることは何もなく、うろうろと近所を徘徊してやっと開いた、
駅前にあるミスタードーナッツに飛び込んでコーヒーをすすった。
そして、1時間ちょっとしてから、公衆電話から消え入るような声で
「帰ってもいいですか?」夫にと尋ねていた。
もちろん、夫はあきれた声で「帰ってこいよ〜」と言った。
扉を開くと、ゆりこを抱いてスーツのままで夫は出迎えてくれた。
その姿をみて、私はまたしても泣いた。自分でもなんでこうなるのかわからなくて。
そういうとき、夫は会社を休まざるをえずでもあったが、まる一日休んでくれた。
そんな日は夫に甘え、ヘルパーさんにゆりこを預け、おいしいものを食べに出かけたこともあった。
たった数時間の自由な時間だったが、うれしかった。
その後、夫の転職活動時期にぶつかって、夫婦喧嘩は絶えなかったが、
一方で、一緒にいる時間も増えて一緒に育児や家事をしてくれたのでうれしかった。
たまに読書の時間と称して外出させてくれた。行く先はいつもミスタードーナッツと代り映え
なかったが。
 
こうして産後数ヶ月を乗り越えた後も、私は自由な時間を求めて、ゆりこの朝寝と昼寝の時間を
利用して小一時間の外出をした。
というか、私自身がカウンセリングを必要としていたので、
昼寝の時間を利用して、近所のカウンセラーさんの所に出かけていたことが多い。
「それぐらいの時間、外出してもまだねんねの頃だから大丈夫よ」と二人子供を育て上げた
カウンセラーさんが助言してくれたのである。
これには賛否両論あるだろう。火事が起きたら、泥棒が入ったら、どうするのだ・・・と。
でも、それぐらい独身時代が長く、仕事に遊びに勉強に忙しく家にいることが少なかった私にとっては、
家に閉じこもるというのは晴天のへきれきの出来事で精神的に耐えかねることだったのだ。
ゆりこが保育園に入る10ヶ月まで、そうやってプチ家出を繰り返していた。
何も悪いことがその間起きなかったことは天の恵みとしかいいようがない。
 
尚、10ヶ月まで家にとじこもることがとにかく嫌だった私は毎日のようにゆりこを連れて
ミスタードーナッツに出かけもした。他にもいきようがあったのかもしれないが、
先の産後数ヶ月の家出の頃から世話になっていたので、いちばん安堵できた空間だった。
だが、そのミスタードーナッツも今は閉店してしまってない。
神様がもうおまえには用がないだろうといってとりあげられたように思われてならない。

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