<インド日記>

1999年12月18日(土)

ご無沙汰しました。
インドから無事に戻りましたが夏風邪等に悩まされていました。
ようやく秋の気配とともに改善しました。とはいえ万全ではないですが・・・。
さて、今回のインドの旅は一言でいって「出会いの連続」でした。
会う人みなはじめてというのもありましたが、それ以上に
予想外の出会いや出来事がありました。
それは後述するとして今回の旅で行動を共にした方が言っていた言葉が印象的です。
「目的意思のない旅には意味がない。旅という非日常に身をおくことによって
日常を振りかえることが大切なのではないのか。そうでなければ、
日常から逃げるだけのことになってしまう。」
旅はいろんなことをもたらしますが、それを普段の生活に活かすようにしなければ
もったいないのではないか、ということなのでしょう。
経験しただけで知恵が身についたとはいえない、ということにも通じますね。
気晴らしの旅が悪いというわけではありません。
気晴らしそのものでその後の新たな生命力を培ったならば、
旅の目的意思は達成されたといっていいいのかもしれません。
あらためて自分が旅に何を求めているのか今後も考えたいと思いました。
尚、今回の旅について補足しておくことがあります。
今回の旅は観光ではありませんでした。
大学の学生NGO(民間非営利団体)が資金援助を行っている
インドのキリスト教系医療福祉教育施設等を有志の学生(または社会人)が
訪問し体験学習するというものです。自分が援助している相手先を直接その目でみて
手で触れてみて、その援助の意味を知り、日本での資金援助者、団体の方々に、
そのことを伝えると同時に継続して資金援助を求めるというのが主な目的でしょう。
もちろん旅で得るものは個々にそれ以上のものがあるのは前述の通りです。
学生たちは夏休みを利用しておよそ一ヶ月インド国内をめぐりますが、
私と今回旅を共にした社会人の方は仕事があるため、はじめの2週間だけの
体験学習となりました。今回の旅の主たる道連れがこの援助活動の顧問を25年間も
してきた神父だったのとインド訪問3回目の方だったというのが幸いして
充実した毎日を過ごすことができました。私は資金援助もしていなければ
学生時代にNGO活動をしていたわけでもありません。この旅に参加するに
至ったきっかけは次のマザーテレサの言葉に感銘を受けたことにありました。

この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。だれからも自分は
必要とされていないと感じることです。

では、「出会い」をキーワードにインドでの体験をお話しましょう




1999年8月1日(日)

前日は夜遊びをしました。お酒も飲みました。夜更かしもしました。
スペインから帰国したばかりの友人が「そのまま成田にいけばいいじゃない。」
というものだからついつい。夜明けに一度帰宅して、届いていたファックスをみて苦笑。
今回の旅を学生時代に経験している、長年の友人からの便りでした。
「・・・現地では何があっても多分大丈夫なあなたでしょうが、体だけが
心配です。出発前には、夜更かし、酒のみはひかえるように・・・」

というわけで、ほとんど寝不足の状態のまま出発しましたが、
私は機内窓際の南インド出身だというエンジニアさんと早速会話。
そのインド人の方は「一年間日本にいたのだ」と言って、片言の日本語を披露して
くれました。その際に見せてくれた本の題名は「日本語の秘密」。
秘密とはまたおおげさな、と思いつつ、
「日本語で何が一番印象に残っていますか?」と尋ねたら、
「”たけや〜さおだけ〜”のメロデイがよかった」とのこと。
もっともその意味がわからないというので
「物干し竿の行商の掛け声だ」と教えました。
おかげで、懐かしのラーメン屋のチャルメラ、焼きいもの掛け声、古紙回収と
トイレットペーパーの引き換えの掛け声、とうふ、金魚売りの掛け声などを
思い出しました。
「これで私たち日本人より日本語の秘密を知っていることになるね。」と
片目をつぶったら笑ってくれました。
実際のところ、現代日本人はどれだけそういう「日本語の秘密」を知っている
のだろう、と冷や汗かきました。
そのインド人の方は「また日本に行くよ」と言って私たちとボンベイで別れ、
南方にある家族のもとに向かって飛行機を乗り換えてゆきました。

ボンベイ空港の外はもうとっぷりと日暮れていました。
意外に思ったことは浮浪者やストリートチルドレンの姿が全く見られないことでした。
かつてペルーを旅したときは空港の通関を抜けた途端に色黒の顔に白い
歯のめだつストリートチルドレンの小さな手にもみくしゃにされたものだから。
同行の友人は「この5年間でずいぶんと様変わりした。」とつぶやいていました。
しかし、着陸寸前に上空から空港周辺にみえた土壁にトタン屋根またはビニール
というスラム街の光景は見逃せませんでした。
出発直前にインド通の方にいわれたことを思い出しました。
「とにかく何事もスケールがでかいよ。なんでもありだ。貧富がうまく
共存混在しているというかなんというか・・・」



1999年8月2日(月)

早朝、神父とともに宿泊先の男子修道院長を訪ねました。
が、そこで、がっしゃーん!
神父はせっかく日本から持ってきた高級ウイスキーの瓶を
その院長の目の前で手をすべらせて落としてしまいました。
「ああ、貴方のためだったんです!」とうろたえる神父。
「おやそうかい、とってもいい香りだね。ありがとう!」と院長。
私と友人は唖然。あたり一面は匂いでぷんぷん状態。
とても航空券と列車の再確認を依頼できる状態にないと思っていたら、
立ち直りのはやい神父はそんな私達を尻目に航空券をその院長に
手渡してお願いしてしまったのでした。
たった数分での出来事です。日本では「遠慮」を尊ぶところが
ありますが、そんなのどこ吹く風。同行の神父はスペイン人で、
院長はインド人です。
この後の旅路は遠慮しない方がよいことを学んだ一件でした。

その後、修道院に近接している技術専門学校に出向きました。
途中、ある修道士のお墓参りをしました。
数年前に、その専門学校の校長の仕事に情熱を傾けていたときに
ガンの宣告を受け、ショックの連続とガンとの闘いの後、
最終的にはガンを受入れて亡くなられた方です。
生きていたら同行した神父と同年代です。
墓地の壁にはこう書いてありました。
死は終わりではない。・・・
それを読んでなんとなく救われた気持ちになりました。
学生時代に身内を病で亡くしている私にとっては特に。
そして、そこに「眠る」修道士につぶやきました。
「こんにちわ。はじめまして。よろしくね。」

専門学校ではちょうど卒業式が行われてました。
インドの学生は8月に卒業し、9月から仕事につくのが一般的のようです。
この専門学校に入る条件はなんらかの理由で学校を中途退学せざるをえなかった
ドロップアウトの経験があることです。
10数人の少年達が奨学金をもらっているのを見ました。
本当にドロップアウトしたことがあった少年たちだったのだろうかと眼を疑いました。
未来の優秀な機械工やコンピュータ技術者の卵たちです。
奨学金をもらう少年は誇りに満ちていましたが、
その姿を割れんばかりの拍手と掛け声で、おめでとう!と、はやしたてる同期生たちの
やさしさに、すがすがしい感動を覚えました。
やる気、自信だけでなく仲間意識もこの学校はちゃんと育てたのだなあ、と。
一度はドロップアウトした少年らにとっては、学校を卒業できることは
大きな自信です。やればできる。機会があればなんとかできる。
実際、今回出会った少年達はなんらかの就職先が既に決まっていました。
貧しいからばかなのではない。機会がないからばかにみえるだけです。
途上国でよく言われる教育現場の声ですが、果してそれは途上国だけに
あてはまることなのだろうか、と、ふと思いました。
今の日本の教育をあえてそれになぞらえてみると、
「社会全体で物質的には豊かだけど心が貧しい。だから、今の10代の少年少女は
本当の教育の機会を奪われているのではないか。学ぶ楽しさを教えられていない。
不登校の増加の裏に見え隠れする理由の一つではないのか。」

カレーづくしの昼食後、今度はスネハサダンというストリートチルドレンたちが
自主的に共同生活をしながら教育を受けている教育福祉施設を訪ねました。
男子と女子に分かれていて14の各共同ホームに平均25人が親代わりの
ハウスパレンツ(シスターであることもあれば民間の家族から募集すること
もある)とともに住んでいます。生活費及び教育費は国内の有志、キリスト
教団体、日本を含めた外国のNGOからの資金援助でまかなっています。
住んでいる子供たちの年齢は小学生1年生から20歳ぐらいまで。私がまず
訪ねた女子のホームでは、15〜6歳の少女たちはちょうど期末試験勉強の
真っ最中。17歳以上は秘書、服飾デザイナー、スタイリスト、現地用語の
教師、大学予備科生といった職業に就いていました。
それ以外の少女達は一日二部制の小中学校に通うか、年長者に家庭教師を
してもらって文字や数を学んでいます。
訪問して驚いたのは、みな礼儀正しく、明るいこと。自立心と好奇心も旺盛。
しかし、体には過去の孤児で路上生活中につくった大きな傷跡が無数にありました。
それを指摘すると我も我もと指差すのです。戸惑いを覚えました。
そうやって見せることで、今の自分はあの頃よりも成長したんだ、えらいでしょう?
と言いたかったのかもしれません。
英語が通じないので、子供たちとは身振り手振り、笑顔、折り紙、紙風船、
丸バツゲーム、日本とインドの歌などでこころを通い合わせました。
私の印象に残っていたのはカムラッシュという15歳の少女でした。
インドの女性はみなホリが深くてきれいなのですが、彼女は中でも美しく
賢そうにみえました。
「将来の夢はなに?」と尋ねたら、はじめきょとんとしていました。
「夢」の意味がわからなかったようなので、
「自分がなりたい姿に向かってがんばることだよ」、と教えました。そしたら
「英語の教師になりたい」とはにかんで答えました。
うれしくなって身振り手振りで話しつづけました。
「夢はいつも大きくもつんだよ。どんなに大変だとしても意思を貫き続ければ
必ず実現するから。そのために英語で手紙のやりとりをしてみない?
友達になれるし、英語の勉強になる。あなたの夢に近づくことができる。」
理解した彼女は目を輝かせて「きっときっと写真と一緒に手紙を送ってね」と
言って、友達の印として、私の手首にリボンを結んでくれました。
今もそのリボンは大事にとっておいてあります。私は楽しみです。彼女が
5年後に本当に英語の教師になったら、そのまた先に英語に興味を持つ
元ストリートチルドレンが現れてまた教師をめざして、と、どんどん英語の
教師の数が増えるのです。英語はインドの公用語ですし世界で通用する
言語でもあります。本人の更なる夢も広がるはずです。
援助は必ずしも金銭だけではなく、こういう人的な援助も時間はかかるけれども
大切だと思います。文通もそのひとつ。
そこのハウスパレンツのシスターは「ずっと子供達と遊んでいてほしい。」と
いいました。実際、言葉がわからないにもかかわらず、子供達はずっと
私と友人の周りにまとわりついて離れませんでした。そういうとき、
この子供たちは親に見捨てられているがために人の温かさや愛情を欲する想いが
強いことを肌で感じました。
長居したにもかかわらず「トマトが好物なんですよ。」と話したら、
(そんなことを無遠慮に言ってしまう私も私ですが)
シスターは「ちょっと待っていてね。」と言って本当に10個ぐらいトマトと
バナナを買ってきてくれました。驚きました。
でも、そんな直球でなかばおしつけがましいほどの愛情が、
甘えられずに育ってきた元ストリートチルドレンの本来持っている
甘えるこころを開いて甘えと自立心をバランスよく育んでいるのでしょう。
かつての日本にも近所のうるさいおばさんという似たような存在があった
ような気がしたのですがどこへいったのでしょう。
もちろん残ったバナナは手土産として持たされました。
「またいつ来てくれるの?」
「私達のこと忘れないでね。」
と、後を追ってくる子供達の言葉が今でもこだまのように響いています。
私は何も特殊なことができるわけじゃないのに彼らに必要とされていました。
私自身の中にある自信のなさ、見捨てられ根性のかたくなさを解かしてくれた
のは実を言うと親に見捨てられ路上でひとりぼっちで生き延びてきた子供達
だったのです。
なお、ホームを去るとき、キャーキャー大騒ぎをする私達の声を聞きつけた
老シスターが隣の修道院の窓から顔を出して、なげキッスをしてくれました。
来てくれてありがとう、とも、いつもあなたに恵みがありますように、という
意味にもとれました。すかさずなげキッスを返した私でした。老女は
照れながらもうれしそうでした。
やはり「自分は必要とされている」と感じることが人として生きる上で
もっとも大事なのだと思わざるをえません。


少し仮眠をとってから、少年たちのホームを訪ねました。
やんちゃ盛りの小中学生たちは騎馬戦、ホッケー、取っ組み合いで
真っ黒になったあと、ほんのちょっとだけ書き取りの勉強を私達としました。
現地語は字体が難しく彼らにまちがいを指摘されっぱなしでした。
にやにやしながら、ちがうよ、こうだってば、いや、おまえもまちがってるぜ
と、黒板の白墨を奪い合いながら教えてくれました。
そうやって同じ次元にたって接することが彼等のこころを開き、
もっと学ぶことの楽しさを知るのでしょう。見下した態度では教育は
できないものだと感じました。
「何がいちばん好き?」って尋ねて、みなひとりひとり自信を持って
即答する姿がうらやましく思いました。
「マラテイシュ!(ボンベイのある州の現地用語)」
自分自身が久しく忘れていた目の輝きを感じたからでした。
勉強のあとハウスパレンツに追いたてられるように少年たちは
風呂場へとかけてゆきました。
静かになった大部屋で、ハウスパレンツをして14年になる二男二女のお母さんと
その長女で将来ソーシャルワーカーになりたいという大学生とお話をしました。
ハウスパレンツをすることはキリスト教を広める活動だ、と多勢を占める
インドのヒンズー教徒ににらまれ非難中傷されてきたはずです。
そして自分の子供でない子供を育てることも大変なはずです。
なのになぜ14年も続けられたのか?その疑問をなげかけましたが、
キリスト教信者らしい答えがお母さんから返ってきました。
「神様に愛されているから他の人も愛するの。それだけです。」
はじめはなんとも思わなかったのですが、話を続けているうちに
涙がこみあげてきました。
「あなたは何をしてもいいんだよ。いつも手を広げて待っているから。
あなたはすでに私の子供です。愛している。だから怖がることはないよ。」
私の中に住む小さな子供に話しかけられているようだったのです。
娘はそういう母の姿をみて、嫌がるどころか、「同じ道を歩みたい」と言います。
「どうしてなりたいのか?」と問い掛けたら母と同じ微笑を浮かべて、
「神様が私をそう導いてくれたの。」
二人の絶対的な信仰心がちょっとうらやましく感じました。
人は弱い。だから何かに支えられたいと思うのが必然なのでしょうが、
それを信じるこころで支えることに、ものすごい力を感じたのです。
まるで神というものを通して自分を自分で支えているようです。
人は自分の弱さを知っている分だけ強くなれる、というのは普遍的な
真実なのだろう、と自らの度重なる病気の体験を重ね合わせた私でした。

その晩、スネハサダンのまとめ役である62になる神父の接待を
受けました。それも夕食を修道院の食堂でとった後に。
その多忙な神父さんが来るまでの1時間、マドラスに行く列車の
チケットがとれない、とぼやくフランス人の放浪者たちとしばしの
あいだ会話。結局、彼らはその夜ではなく翌朝出発しました。
手を振る彼らに向って「VONVOYAGE!(フランス語で
“よい旅を!”)」とつぶやいた私はふとあることを思い出して
笑ってしまいました。インドに発つ直前に買ったばかりの
ファックスを使って筆文字で大きく一言、母が書いてきたのは
なんと、「VONVOYAGE!」
粋なのかダサいのかはともかくとして、それと似たようなことを
している自分は確実に「その親にしてその子あり」状態なのだと
思ったのでした。
さて、神父さんは待ちくたびれたころにやってきて
「おなかすいただろう!今日はごちそうだ」と。
食堂で食べた3人は眼をあわせて覚悟をしました。
夜のボンベイ市街はオレンジ色の光がまたたく中、屋台が立ち並び
沢山の人が歩いていました。雨がざーっと降ってきましたが、
ワイパー無しの車で神父は何事もないかのように手で窓を拭きながら
高級レストランへ連れていってくださいました。歩道も車線もなく
信号機も無視するためにあるかのようで、終始友人はこわばっていました。
友人の話によると車線がたまにあっても、そこからはみ出て対向車がくるのを
避けながら反対車線を走るのもまれではないようなのです。後日会った
日本人の駐在員の方もインドは運転禁止国なのだと言っていました。
帰りはむろん酔っ払い運転でした。クラクションは鳴りっぱなしで行く手を
はばむ車に譲るなんてことは一切しない。追い越せそこどけ状態。
「彼の運転は信用できない。」とぼやくスペイン人神父に対して応酬するように
「私ほどの安全運転はないよ。」
他国でも似たような交通事情を知っていた私は、
日本がおとなしすぎるのだろうか、と錯覚をおぼえつつもシートをわしづかみに
していました。
レストランでの食事は本当にすばらしいものでした。ありとあらゆる香草
を使っていました。意外にもおいしかったのは生の輪切りのきゅうりに
カレー粉をつけることでした。というか、どうしてもおなかがぱんぱん
で、つまみとビールを流し込むのが精一杯だったのでした。
神父は陽気に私達にジョークをとばしました。
「少なめでいいです」といえば、沢山ビールをつぎ、
「それは多すぎます・・」といいかけると、
「ノー!逆だ、君は言葉をまちがえている。」
おかげでビールの量を抑えるたびに
「多めにください」という羽目になり、
酔いも手伝ってか笑いがこみあげてしまいました。
私にとっては食べ物よりもそういった愛敬たっぷりの神父さんの
態度そのものが最高のもてなしでした。

半ば養鶏場にほうり込まれた鶏状態で修道院に戻った私達は、
たった一日で起きた出来事をも消化しきれないまま眠りについたのでした。



1999年8月3日(火)

やはり昨晩の出来事は消化しきれなかったようです。特に友人は
ずっと一晩中眠れなかった模様。なのに「自力で治すのだ」といって
薬を拒みます。ついに同行した神父に半ば強制的に修道院の裏手にある
医務室兼病棟に連れて行かれました。
「旅はこれからなのだから今から体力消耗するようなこと(下痢)は
避けるべきだ。」
と、おっしゃる今年71の神父は毎食後に大量の心臓の薬を飲んでいます。
薬のおかげで自転車操業のようにいろんなことができているという案配
です。わが親も「もう余命がないのだから痛い思いをするぐらいなら
薬漬になってでもやりたいことをする方がいい」と言います。
私はというと、あまり薬には頼りたくありません。眠るための薬を切らした
がためにかえって眼がらんらんとして眠れなくなってしまったとか、
耳が聞こえなくなってホルモン剤を飲んだかと思ったら吐き気と
頭痛と微熱の副作用に悩まされたとか、中米で赤痢治療のために仕入れた
強烈な下痢止めのおかげで便秘が続いてしまったという苦い経験があるからです。
でもないよりましというときもあります。
どれが正しいまちがっているなんて言えない。
薬ひとつとってもその人の生き方が現れるものだと思ったのでした。

病棟では、ぼけ症状のある方、目のみえない方、足を骨折した方が
療養中でした。神父も修道士も、怪我や病気をする人間なのですね。
手を握るとうれしそうな顔、驚いた顔をする人さまざまでしたが、
みな触れるとそれまで怪我や病気でこわばっていたからだに
あたたかい血が通うのが感じられ、自分がまだ生きていることをじっと
確かめているようでした。
目の見えない老神父は訪ねてきた私達に5年前に日本人の学生が
ハレルヤを歌ってくれたときの感激をかみしめるように話して
くれました。みえない分だけ聴力が補っているというよりも
みえないおかげでより研ぎ澄まされた音感を手にしている感じを
受けました。確かに後日再会したとき、その老神父は、私達の
夜中の消灯後の帰宅について怒ることもなくにこやかに言いました。
「爆弾か花火のようにでかい音をたてて何事かと思ったよ。」
病棟は私達の部屋からかなり離れていたはずでした。
ですから私達の気を遣ったつもりのドアを開け閉めする音のたとえ方には
苦笑。
出会いは不思議なもので、その医療棟では、同じくNGO活動をしている
スペイン人神父とスペイン各地からやってきた社会人や学生に会いました。
ちょうど、その人の噂話を目の見えない老神父としていたこともあって、
思わぬ再会に同行した神父は大喜びでした。私はというと、学生時代に
学んだはずのスペイン語を試されて四苦八苦でした。

昼食後、昨晩のお礼を兼ねてスネハサダンの神父に面会を求めました。
待っている人が他に数人いました。
待合室でごろんとして居眠りしている女性がいたので
安心してこちらも居眠りをはじめてしまいました。
はっと気がついたときはもう2時間はたっていて、
ごろ寝の女性はいなくなっていました。先に起きていた友人とともに
目の前で繰り広げられている光景に眼を奪われました。
なんで昨日女子のホームで出会った20歳の女性が座っているのか?
私がねぼけているのをみて笑う彼女の横には
10歳前後と思われる少年が立っていました。その子は
定規のような棒を持った教師らしき男性に腕をつかまれて
繰返し何かを言われていました。そのたびにその子は
横に首を振ります。しかし、すきをねらっては男性の持つ棒をつかもうとしたり、
私達のところににやりと笑って足元におでこをすりつけて最敬礼をしたり、
なげキッスをしたり。
なんとも生意気でかわいげがない。
話によると彼にとって生れてはじめての授業だったらしいのです。
ストリートチルドレンから足を洗う決意を自身でしたとはいうものの、
教えられることがどういうことか、真の自由を得るには、ある程度の
束縛が必要なことがわからないのです。
また、子供らしく甘えることを知らない。
自分が大人に混じって生きて行くためには、かけひき、ずるがしこさが
先決で、だだをこねて泣き叫んで、なんていうのはもってのほかだった
のでしょう。だからお手上げ状態になった家庭教師をしている20歳の
現地語女性教師は先輩教師である男性を呼んで説教をしてもらっている
ようなのでした。何を言われているのかはさっぱりわかりませんでしたが、
少年がストリートチルドレンの生活には戻りたくない、変わりたい、と
いう熱意を首を横に振ることで表していることだけは伝わりました。
20歳の女性も元ストリートチルドレンで同様の体験をしているので、
その少年をみる目は温かく感じられました。
さしずめ昔の日本にあった寺子屋の風景とでもいいましょうか。
教育の原点をかいまみた一件でした。

それにしても、面会予約なしでずっと粘った上に、行き来してはのぞいて
みても待合室での心地よい眠りからなかなか覚めない私達にあきれた
昨晩の神父はついに10分だけ話をする時間を割いてくれました。
そこで神父にスネハサダンでの教育方針を尋ねたら次のようなことを
言われました。
「私達がやっていることは子供たちを聖人にするのではなく
一個の人間にすることだ。そうするために食べ物、衣服、寝床、教育の
機会を提供する。聖人にすることができるのは本人の信仰心だけであって
他の人間にはどうしようもないことだ。もちろん宗教や倫理の時間もある
けれど、それらを自分のものにする権利はそれらを受ける者にある。」
昨晩のご愛敬とはずいぶんと態度がちがうので、やはりこの人は神父
なのだと思いましたが、この言い方から驚いたのは、インドでは
一個の人間、つまり、個性ある人間として認められない人達が数多く
存在するという実態でした。自己尊厳をもたせることから
ストリートチルドレン達の教育がはじまる
のです。たいがいが幼く
して親に捨てられ、別れを余儀なくされ、虐待され、本来親から
自然に学んでくるはずだったこれに欠けているのです
自分は必要とされている、愛されているから、自分は生きていて
よいのだ、自分を信じでいいのだ」という自己尊厳。

後日、その実態を何度も目の当たりにすることになります。

なお、私たちと話を終えた神父はさっそうと750ccの大型バイクの後ろに
片足のないやせ細った男性をのせて、昨晩の愛敬のある笑顔をすると
大きなエンジン音をたてて走り去ってゆきました。



1999年8月4日(水)

この日はボンベイから北東に位置するアーメダバードに向って
7時間の夜行列車に乗ることになっていましたが、朝から又しても
強行軍となりました。

71である神父が知り合いで、スラム街の子供達に青空教室を
はじめたというボンベイ市街の中心に拠点をおく45の若い神父の
もとを訪れ、そのままアーメダバードに移動するため、大荷物を
抱えて電車に乗ったのでした。
時刻は朝8時半ごろ。周囲の掲示板に書いてある文字も駅の
アナウンスの声もわからないけれど、どうにかなるだろうという
気持ちで駅の構内を走りました。まあ、東京の新宿駅のような感じです。
やっとプラットホームにたどりついてみると電車は超満員。
ドアなんてなくて、ぶらさがって乗っている人もいるぐらい。
降りる駅は中心地にあるだけでなく3路線も交差している大きなところ。
東京の山の手線、大阪の環状腺のラッシュアワーなんて比じゃありません。
一度乗車に失敗してようやく鈍行に。もうそのときは相手が老神父である
ことを忘れて手を無理矢理ひっぱって車両に思い切り押し込みました。
痴漢も大胆です。やめるように足をふんづけてもけとばしても
のらりくらりすりすり。なにせ女性専用の車両があるぐらいです。
日頃、触れられない女性どころか外国人の女に触れられるものだから
チャンス!とでも思っているのでしょうか。いうまでもなく女性専用の車両
に乗らなかったのは、老神父を一人にしておけないというのと、その神父
しか行く先の住所と面識をもっていなかったからです。
車内ではどこからともなくどっかの宗教一派の音楽なのでしょうか、
ミニシンバル(さるの人形が持っているシンバルを想像してもらえるといい)
が複数ちゃかちゃかと鳴り響き、汗だくと海老ぞりの体勢と痴漢がミックスして
妙な気分でした。
下車して目的地につくと出迎えてくれた若い神父に大笑いされました。
「なんてむちゃなことをしたんだい!」
「いやたまにはいい汗かいて運動した方がいいからね、でももう十分。」と
老神父。

かついでいた荷物をおろして、あたたかいチャイ(インド式の濃いミルクティ)
をごちそうになって一服したところで、若い神父がはじめたばかりの
青空教室の話を聞きました。45といえば老神父が学生NGOの顧問を
はじめた年ごろです。眼を輝かせながら意気込んで話す姿は老神父の眼には
どううつったのでしょう。頼もしい?世代交代?枯れゆく老樹に新たな芽?
側にいて気になりました。また目がいったのは若い神父の右足に障害が
あることでした。言われなければ気にもならないほどなのですが、そこに
その神父が神父という道とスラム街にとびこめた理由がみえたような気が
しました。障害がある人はある意味で強いと思うのです。日本でもテレビ
番組「青いうさぎ」でようやく聴覚障害者が、「ゆっぴいのばんそうこう」
で重度心身障害者が認知されるようになってきましたが、それでもまだ社会
に彼等が声を出して健常者と同等の教育と仕事の機会をのぞんでも、かなえ
られているとはいえません。真に社会の中の人間として生きるためには障害
への理解を世間から得る必要があると考え、一ミリでもいいから
あきめずに前進しつづるということはものすごいエネルギーを使います。
障害があるからOOができない、してはならない、と決めたのは大概
健常者です。どうして障害のない人に障害のある人の意見を聞かないで
あれこれを決められるのでしょう。耳が聞こえない人達の集まりに招待
されたら手話を知らない健常者は外国に投げ出されたようなものです。
人はみな弱いところもあれば強いところもありますが、障害もある一定の
社会(環境)では弱みになるけれども他の社会(環境)では強みになると
いう長所と短所を兼ね備えた個性という捉え方がのぞましい
。長所は
生かして短所は他人に補ってもらうというシーソーのような支えあいが
できてはじめて社会全体が活性化して機能するものだと思うのに、
そうなっていないのが日本の現状です。そしてインドでも同様だと
思うのです。ですから社会の援助が少ないなか自分の力で障害を
個性として自分のものにしてきた人は逆境に強いと思うのです。
スラム街にいる子供達もそうし潜在的なエネルギーの持ち主です。
だから、その若い神父は自分の体験と重ねあわせてそうしたエネルギーを
社会が無知のままに放置するのはもったいないのではないか、という
疑問を投げかけているように思えたのでした。
本をたずさえてスラムの道端でも広場でも子供達のいるところに
積極的にとびこんでいって、この指とまれ!という感じで即席で授業を
するという一種家庭教師のあり方の今後の行く末が楽しみです。

さて、まじめな話が終わって夜行列車まで時間があるので、観光をすること
になりました。神父の提案によりボンベイの港までてくてくと20分ほど
歩きました。途中、すたすたと先を歩く2人に遅れつつ、イギリスの植民地
の名残をとどめる裁判所、大学の建物、時計台を眺めました。
港について買ったキップはエレファンタ島行きの船。てっきり象が住んでいる
動物園みたいな観光地なのだと思っていたのですが、違いました。
世界史で習ったアジャンタやエローラの石窟寺院に次ぐ歴史的な遺物だと
いうのです。ほうっと思ったのですが、どうも神父の顔がさえません。
もう何度も足を運んだからなのかもしれませんが・・・・。
乗った船は漁船をちょっと大きくしたぐらいで大波がくるとすぐに被ってしまい
そうな感じです。海の色は黄土色。日本の青黒い海とは大違い。ちょっと魚の
姿が見れないのが残念でした。行きは朝のラッシュアワーの疲れが出て、船の
心地よい揺らぎにのって3人とも居眠り。一時間して島に到着してまず船乗り
から帰りの船の時間を聞いて慌てました、1時間も猶予がないのです。
石窟寺院は島の山の頂にあります。あざらしのように丸く大きなお腹をかかえる
老神父の背中を押しながら階段を汗水たらして上ること20分。周りにある
土産物屋をちゃかしている暇なんてありません。ずっと「NOTIME!!」と
言い返しては前進するのみ。そして頂上に着いて石窟をみることものの5分。
確かに大きいけれど繊細で美しいにほど遠いシバ神(ヒンズー教の神様の一人)
の彫り物にうーんとうなりました。神父がさえない顔をしていたのもうなずけ
ました。仕方なく、そこらへんのジャングルの中を遊びまわっている猿たちと
写真をとり、彼等に朝の電車ラッシュアワーでバッグの中でつぶれてしまった
バナナの残骸をあげて、また20分かけて階段を降りました。
船に乗る直前に、これまたなぜか海辺で草を食むヤギの群れと
さびて動かないミニSLをみて、やっぱりこの島は動物園だと思わざるをえません
でした。象がいればもっと流行るのにとも。
船は乗った途端に出発しました。やれやれ間に合ったと思って一息つく間も
なく今度はスコールです。茶色い水飛沫と大粒の雨に見舞われ、足ががたがた
の席にふんばって座ること一時間。さすがに浸かれきった(疲れきった)3人は
どうでもいいからどこかに落ち着きたい一身で港から出てすぐの小さな店に
入りました。しかし、まだこの時点で落ち着くことはできませんでした。
カレー三種、チャパティ(小麦粉でつくったうすいクレープ状のパン)、
セブンアップ2つにコカコーラ1つを注文。
鶏のカレー、ヤギのカレー、挽肉のカレーはまずまずとして問題は飲み物。
セブンアップの緑の瓶がすぐに来たのに、カレーもそろったというのに
コカコーラがこないのです。汗かいて喉が渇いているのですから、いちばん
先にきてほしいのに神父のそれはなかなかきません。
「きっと隣の店に買いに行っているんだよ」とか笑っているうちはまだしも
「一杯のコーラ」と言い続けること4回。
ついに怒った神父は店主をよびつけました。
「いいか、コカコーラ4つじゃないから。コカコーラ1つだからね!」
あわててウェイターの少年がコカコーラ1つを持ってきました。
やっと飲み物にありついて遅い昼をとったわけですが、たらふく食べてたった
の200ルピー。ちなみに1ルピーは目下3円。3人で600円です。
日本では一人で600円以上。ちなみにバナナ一本が2ルピー。日本では一本50円。
日本の物価がいかに高いかがわかって絶句しました。

疲れた私達が次に向ったのはタージマハルホテル。
目的はそこのトイレを借りること。トイレごときどこだっていいじゃないか
と思うかもしれないのですが、入ってみて驚きました。
さすが世界のVIPを迎える最高級のホテル(一部屋3万円から、でも
折りからの不況で50%デスカウントしてくれるらしい)。インド風の模様が
描かれたタイル張り、金の縁取りの大きな鏡、大理石の床と洗面台、金の蛇口、
ピンクのやわらかいトイレットペーパー、”流れる”洋式水洗トイレ、お湯と
シャボンが出る洗面台、化粧台、常にほうきをもって人が出入りするたびに
お掃除するこぎれいなサリー姿のトイレばあちゃん。入る女性達は最高級の
ドレスと宝石を身につけています。思わず写真でも撮ろうと思いましたが、
まさか帝国ホテル(よりもすごい)のトイレを写す人はいないだろう、と
やめました。でもあとから友人に尋ねたら、以前来たときに撮ったと。残念。
ところでインドのトイレの格好はとても不思議です。洋式といわゆる和式
トイレが合体しているのです。洋式のトイレのふたをとって腰掛ける輪っか
をもちあげるとへりの左右に出っ張りがあってそこに足を置くわけです。
昔、日本でも洋式トイレ導入当初、まちがえて輪っかに足をのっけて
ふんばっていた人がいたという話はききますが、それを当り前のことと
して出っ張りを設けているのです。また、輪っかも出っ張りもない洋式トイレ
に、横にある蛇口でバケツに水をためてその水の勢いで流すか、はね式ではなく
ダイヤル式の水栓をゆるめて水をトイレに流すか、というのもあります。
実に輪っかのない洋式トイレは大便をするときにふんばりがきかなくて
困ります。中南米の国に行ってもそうであることが多いのですが、
なんでそうなっているのかいまだにわかりません。
そのホテルのトイレではインドでは決してお目にかかれないであろうと思って
いたお湯に遭遇したので、日本人としてはもうたまりませんでした。
やはり、汗をかいたら一風呂浴びてさっぱりしたいというのが日本人だと
思うのです。実際、後日会った駐在員の方に言われました。インドでの暮らしで
どうしても我慢できないことは風呂桶にざぶんとつかってのんびりすることが
できないことだと。インドでは気候が高温多湿ゆえに風呂はすべて水シャワー。
一般的なホテルでもお湯のマークのついた蛇口があっても出ないことしばしば。
でも、お湯がなくては毛穴があかなくて物足りない。だから、最高級のホテルの
トイレで周りの淑女たちを尻目に思いきりシャボンとお湯で、ラッシュアワー
とエレファンタ島ツアーでかいた汗を洗い流しました。その日は夜行列車
で身体を洗えないので、せめて顔と手だけでもきれいにできて安堵した私
でした。トイレをあとにして、これまた金襴豪華なロビーで久々の冷房の中
のんびりと藤椅子風ソファに腰掛けて一休み。それからちょっとだけホテル内を
探索。金きらのエレベーターにのってたまたま開けっ放しの部屋の向こうに
見える海の絶景に息をのみ、ショッピングモールに飾ってある宝石の値段はさる
ことながらそのばかでかさにも絶句。きらびやかな絹と凝った刺繍のパンジャビ
ドレス(インドではサリーよりも長パンツと長い上着といったパジャマの
ような服装が一般的)、ショール、サリーはきれいだけど、やはり日本人
には似合わないと思いました。
探索からもどると雨に降られてやはりトイレをかりにかけこんできた日本人の
男女の若者がロビーに座っていました。色黒なので日本人ではないかもしれない
と思っていたのですが、向こうから話し掛けてくれました。いずれも20代で
仕事をやめて1年かけてアジアを一人旅しているのだそうです。
よくお金がもつなあと妙に感心してしまいました。この頃、そういう社会人やめて
放浪者っていうの多いのでしょうか?後日、その一人からメールでインドを脱出して
ネパールに入ったとの報告をもらいました。各国のインターネットカフェから
そうやって日本にいる知りあいに便りを出すのだそうです。放浪しながらメールという
組み合わせにも不思議を感じました。インドではかたや、スラムや路上で日当を
稼ぐのに精いっぱいの人がいるかと思えば、金銀にうもれた超金持ち、
ぼろ服に電子メールを勅使する人がその半径10m以内にいるのです。
本当になんでもありの国だなあとあらためて感心してしまいました。

この晩、3人は夜行列車に乗ることになっていました。朝からの疲れで、神父は
わがままになっていました(というか日頃の抑えているわがままがそのまま
出たのか)。
地べたに座りこむ人ごみで一杯の上野駅のような感じの駅に着くやいなや、
「列車はどこ?」
「2時間前ですからまだ入ってきてもいませんよ。」
「ほんと?確かめたの?」
「はい。あの、カフェテリアで休みませんか?」
「本当にまちがいないの?」
(しつこいなー。)
「はい。」
それでも信じない神父のために友人は再度プラットホームの掲示板を
チェックしに。それで神父やっと納得。
カフェテリアに入ると今度は、
「もっと奥に行きましょう。もっとね、ほら。見えないところがいいですね。」
「え?まさかただで居座るつもりですか?せめて飲み物だけでも・・・」
「じゃ、買ってきて。」
そこでは、道中ずっとそうだったのですが、神父は、どうしたらこんなに
小さな荷物から出てくるのだろうというようなバッグから、ぽいぽいと
日本製の100円喉アメを取り出しました。各自、一杯7ルピー(21円相当)
のジュースやチャイに、足をはだしにして荷物の上に乗せて、うつらうつら。
1時間後、ようやく入って来た15両連結はあると思われる長蛇の夜行列車
のプラットホームに行くと、掲示板には各自の名前が座席ごとに張り出されて
いました。名前だけと思ったら年齢まで書いてあります。その数字をみて
こりゃ詐欺だとおもわざるをえず、友人と苦笑。ここまでするのは闇取引防止
のためです。発券予約の際に年齢も登録するのですが、私たちは事前に
予約してくれる人に年齢を告げていなかったのです。
神父は入ってくる列車をみるやいなや、まだ止まってもいないのに、掃除もして
いないのに、電気もついていないのに
「乗ろう!」のひとこと。
友人がどこの車両なのかをチェックしている間に列車は停車して、運良く(?)
神父と私の目の前に私たちの乗るべき車両が止まってくれました。
藁しかないような貨物車までみて走って帰って来た友人の苦労はなんだったの
でしょう。
ちなみに最高級の車両は冷房ががんがんに効いていて、窓は開けられず、
おまけに重いカーテンつきで、他の車両から完全に切り離されています。
私は朝のような満員電車も嫌だけれども、そんな人の触れ合いがない
無菌室のような車両もごめんだと思いました。
さて、神父のいうがままに誰もまだ入っていない真っ暗な車両に入り、座席を
みつけた私たちは、まさに夏の夜の怪談話のように懐中電灯のあかりを囲んで
夕食をとりました。発車まで冷やしてとっておいておけとホーム売店のおやじに
言ったのに冷えていない1Lペットボトルの水を回し飲みし、ひと房のバナナを
とり終えた私たちは早々に座席を寝台に組替えて横になりました。

ところでアーメダバードは州法で禁酒されているので、上野駅に着くまでに神父と
ともに私たちは3時のおやつにビールとつまみをとっていました。
やはり神父だからなのか、汗をかいたあとの一杯がおいしいからなのか。
それとも以前、同じ夜行列車に乗って酒盛りをしようとしたら禁酒法違反で
(列車内は行き先の法圏内)は警察に連行されたけれど警察を脅したかいあって
無罪放免で帰って来た武勇伝を思い出したからなのか。だからお腹一杯で
夕食も少なくて済んだのか。うんぬん。

そうこう考えながらうとうとする中、夜9時15分、アーメダバード行き夜行列車は
がたんと音をたてたのでした。



1999年8月5日(木)

7時間後、早朝アーメダバードに着き、ニューデリからやはり18時間の
夜行列車で到着した現役の学生たちと合流しました。ニューデリでは本当は
かの有名なムガール霊廟を見学するはずだったらしいのですが、休館日
だったようで、それだけで十分学生たちは肩を落としていました。でも、
早朝、アーメダバードの駅でスラム街の子供たちから花輪の出迎えを受けて、
ちょっぴり心がなごんだようでした。
そして、さっそくアーメダバードの修道院で朝食。食事はたいへん豪勢
でした。私にとっていちばんうれしかったのは、庭でとれた新鮮なライムを
絞ってジュースにして飲むことでした。先に修道院の庭を歩いて、パパイヤ、
トマト、オクラ、なす、バナナ、そしてライムといった見事な野菜や果実を
目の当たりにしていたからです。中世の自給自足の修道院の姿を彷彿とさせた
のです。
また、カレーばかりでは体が疲れるだろうとの配慮をしてくれた若い接待係りの
神父に感謝。事実、学生たちは緊張の糸がほぐれたかのように体調を崩し
寝こむ学生もいました。自分のことをさておいて、これから3週間ちゃんと
旅ができるのだろうかと心配でした。

そういう体調が万全とは言えない中、さっそく勉強会となりました。
庭に隣接する風がそよぐ縁側で30人ばかりが集まって、スラム街の援助の
歴史を今年80になる一切の職から引退した神父から聞きました。その神父は
父が大金持、母がイギリスの大学で学んだという上流階級の出身でした。
しかし、両親がスラムの子供たちを家に呼んでは遊ばせていたのを体
でおぼえるうちに神父の道を選んだようでした。そしてスラム街に
ぼろ服でとびこんで教育からはじめたというのです。スラム街の側に
ある塀に囲まれた大学の副学長の地位にあった彼はそのスラム街の存在
をまったく知らなかった。けれど、ときおり夕暮れの大学の構内で
遊びまわるスラム街の子供たちに接するうちにあの子供たちがもっと
世の中の広さを知ることができたらどんなにうれしいことだろうっと
思って大学の教室を夜貸して、幼児から高学年まで文字と数を教える
場をつくったのでした。
はじめはやはりカーストの下級にある動物としてみなされていた
不可触賎民に触れることにかなりの抵抗感をおぼえたそうです。
でも、思いきって子供たちに触れたら子供たちの笑顔がとても愛しかった。
だから、その子供たちの笑顔に支えられてスラム街の教育医療福祉の
援助活動を地道にやってきたようでした。
あとでスラム街の子供たちに囲まれたときに何度も
「私の子供、孫なんだよ」
といって微笑みながら頭をなでる姿は親そのものでした。
マザーテレサのようなことをしている人がここにもいる、いや、マザーテレサは
こういう人達の代表にすぎなかったのかもしれないと、思いました。
やっていること何一つ違いはないと思えたのですから。
なお、その人の手はごっつくでも大きくてあたたかいものでした、何人の子供が
その手に包まれることで愛情を感じだことでしょう。
彼の方針はこうです。「貧しいものを助けることで貧しいものを助ける
自立した援助をめざしているのです。貧しい大学生に奨学金を与えるかわりに
スラム街の子供たちに文字を教えることでアルバイト料を払い、そうやって
成長した子供たちの何人かは教師になってまたスラム街の子供達に文字や数を
教えるのです。外からの援助はあとが続かないからでしょう。

その後、その80の神父のスラム街の医療教育援助プロジェクトの後任として
40代の大学学長がなりましたが、その人との出会いは今回の私の旅で
いちばんの収穫だったような気がします。
彼はカースト制度の一番下の不可蝕賎民出身の神父です。専門は心理学で
しょうか?その身分から私立の有名大学の学長にのぼりつめることは大変な
ことです。その身分の人達はその昔、スペインのジプシーや中近東の放牧民
のように放浪の民であることに誇りを抱いていたけれど、
カースト制度という人工的な差別制度ができてから人間としての尊厳を失い、
自分で自分自身を卑下するようになってしまったということです。人工的とは、
肌の色、職業、罪状など明らかに目でわかる違いからの差別ではないことを
意味します。では何でわかるかというと名前と出身地と言語。日本でいうところ
の同和問題や在日朝鮮人問題と同じです。その人工的な差別が長く続いた結果、
人々が自分を大事にしなくなってしまったというのがもっとも由々しき事態
です。教育さえちゃんと施されれば、自分が生きている価値を見出すのに、
人間として扱われない不可蝕賎民ゆえにまずは教育の機会が奪われ、たとえ
機会があったとしても「自分達はもとから人間じゃあないから教育なんて受けて
も人間にはなれない、俺達に触れてもいいことなんて一つもないんだぞ」と思い
込んでいて、教育を受けようとしない。その思い込みの心理状態が差別をより
根深いものにしているのです。
では、自分で生きる道を選択してよい人間である
ことに目覚めさせるにはどうしたらいいか。小さな選択から大きな選択へと
移して、選択→失敗→反省→選択→成功→自信→選択という訓練を時間をかけて
繰り返す。それがその神父が考えた心理的な差別からの開放の方法でした。その
方法は神父自らが実践することで実証されました。おかげで今は少しずつその
訓練を受ける人が出てきているとのことでした。その神父との次の会話でわかる
と思います。
「あなたは自分が不可蝕賎民であることに誇りを抱いていますか?」
「もちろんですとも。不可蝕賎民であることを私は隠さない。隠すことは
自分自身を否定することです。私にはそんなことはできません。自分の不遇をも
ありのままに認めることが自分を信じることへの第一歩です。」
「ではあなたは自分で自分に訓練を課したわけですね。その結果が今あなたが
言われた言葉と態度ですね。」
「その通りです。この訓練法は使えます。実際この方法で自己尊厳をとりもどし
てる人たちの輪が広がっています。」
その自信に満ちたこ言葉と態度は経験に裏打ちされていて決して過剰では
ありませんでした。普段から自信を失いがちな私はつい彼に握手を求めてしまい
ました。そして思い浮かんだことは
自分の弱さを思い知った分だけ人は強くなれる
彼にその姿をみたような気がしました。

勉強会のあと、スラム街に足を踏み入れました。小雨が降る中、沢山の子供たちに
囲まれました。チョコレートがほしい、写真をとって、と繰り返されました。それ
に応じると大変なことになります。あちこちから手がのびてきて押し倒されそうに
なります。ものすごいパワーです。その間に一人の少女に額にミンデイをつけても
らいました。インドの人がよくつけている赤い印です。仲間として歓迎するという意味
だったのだと思います。ちなみにその少女の両手のひらには唐草模様のような絵が施され
ていました。一瞬、刺青にみえますが、彫っているわけではないようです。ただ毎日
描きなおしているのか、手に朱色が染み付いています。鼻、耳、手足にはみな金色
の輪が揺れています。まだ幼さが残る少女なのに色気を感じました。
小さなスラム街の一角の部屋では四歳ぐらいの子供たちが地べたに座って
A4版ほどの小さな黒板に白墨で文字を先生の指示に従って書いていました。
私達がのぞきに入ると一斉に文字の歌で出迎えてくれました。
「ドーはドーナッツのドー」っていう感じに。歌うことで自然に覚えるので
しょう。なんとなくいきなり興味本位で写真をとってしまったことに罪悪感を感じ
ました。次には診療所に入りました。60代とおぼしきサリー姿の女性の医師と
若いサリー姿の看護婦。部屋にはほとんど薬の瓶、注射器、点滴の道具、脱脂綿などが
見当たりません。ごみ箱にかろうじて空のビタミン栄養剤の茶色い小瓶が捨てられて
いるだけです。部屋の壁には至るところに色とりどりの絵が描かれ、黒板があり
ました。幼稚園にみえます。書類が飛び散り、決して清潔とはいえません。
あまりにも日本でみかける白い病院の部屋と違うことに驚き、どうやって
医療を行っているのだろうかと頭をひねりました。話によると数年前まで診療所に
やってくる人すらいなくてまず診療所がどんな意味を成すのかをスラム街の人たちに
教えることからはじまったということでした。自分のこころとからだを大事にすること。
大事にすると自分にとってどんなにいいことがあるのか。
自分を人間だと思っていないといってもいいような状態のスラム街の人たちに
はそうした人間として生きる上で最低限必要な知識と知恵を提供するのが
今回私が目にした診療所の役割なのです。その教育のおかげで、今では定期的に
母子健診にやってくる人が増えました。身長体重を量り、最低限必要な栄養の
とり方、清潔の保ち方を教える、予防衛生教育が中心です。今、蔓延しているのは、
結核、エイズ。
個人の発病後はどうしようもない状態かもしれない。しかし、事前に発病しない
ためには、他の人に感染しないためにはどうしたらよいのか、という予防策はとれる。
最先端の機材を押し付けるのではなく、古くからの民間医療に新しい知恵を吹き
こんで活用するという方針でその診療所はそうした次から次へと沸いてくる新たな問題を
解決しようと日夜がんばっているようでした。民間医療をよく知らないとできない
ことです。
よく日本のNGOで医師や看護婦が予防衛生を教えにボランテイア派遣されること
がありますが、その国の文化を理解しつつ自分が異なる文化で培って来たノウハウを
どのようにその国の文化を土台にして浸透させるかが、ポイントのような気がします。
接木の要領。接がれる樹木がどんなものであるかを知らずして異なる枝を接ぐことはできないのです。

小雨にぬかるんだ赤茶色のスラム街の小道をすり抜けて修道院にもどると
あっという間に別世界になりました。やけに清潔で真っ白なトイレと食堂に
置いてあるバターやジャムの瓶に安心した自分に戸惑いました。たった5分
の道のりなのに、ドアと壁をこえただけで、産業革命前の世界とその後の
世界に別れているのです。どっちが貧しくてどっちが富んでいるのか?
80歳の神父が若きころにスラム街に飛び込んだときの戸惑いが少しだけ
理解できたようでした。

昼時少し電車の長旅の疲れをとり、またスラム街の子供たちと対面。
こんどは隣接する大学の構内で。およそ100人は超える幼児から20歳ぐらいの
子供たちがわーっとかけっよってきます。襲われるといってもいいぐらい。
こぞってアメをほしがり、ピースサインをして写真にうつろうとします。
ひとり抱きしめて高い高いをしたり振りまわせばと我も我もとしがみついて
きます。
くすぐる子もいれば、小石を投げつける子もいれば、構内の色とりどりの南国の花
を摘んできて頭や胸元に差そうとする子もいます。際限を知らないすさまじい
パワーです。だからか、押し倒されたときは年長者の子供がむちの棒をもって
子供たちを追い払ってくれました。まだしていいことしてはならないことの区別が
つかないまま、ただ会えてうれしい気持ちを体一杯に表現していただけだった
のですが。あとから聞いたら、隔年に一日だけ会える私達を待ちのぞんで、
興奮のあまり昨日から眠れなかった子供もいたということでした。
まさに芋掘り、運動会を楽しみにする日本の幼稚園児と同じです。
子供たちに振りまわされ気が遠くなりそうな状態になりながら思ったことは3つ。
「幼稚園と小学生の先生にならなくてよかった!いまごろ八つ裂きにされていた
にちがいない。教育って体力勝負なのかもしれない。」
「未知なる可能性を秘めた彼らの巨大なパワーに適宜な方向付けをすることで、
インドおよび全人類の明るい未来をつくってもらえたらどんなにいいだろうか。
こんなに有り余るほどの可能性を放置する教育の形態はおかしい。
もったいない。」
「私はなぜこんなことをしているのだろう。振りまわされ引き倒されているだけ
なのか。でも彼らに触れることも教育の機会のひとつならば思いきり触れよう。私が触れる
ことで、自分も大事な人間のひとりなのだ、と思ってもらえるならば。不可触賎民
とは、つまり、触れてはならない民、ということなのだから。
子供たちに30分ほどもまれた後、スラム街の子供たちによる歓迎会が大学構内
の石の舞台で繰り広げられました。さきほどの無茶苦茶はどこへやら、頭にベール
を被り、おすまし顔の少女たちから真っ赤な香り高いバラと手作りの布地でできた
ノートファイルを手渡され、一緒に踊るよう誘われました。お返しに日本の歌を
数曲歌いました。(「輪になって踊ろう」等)
その後、大学の教室を借りた夜間授業の風景も見学しました。さすがに幼児には
階段教室の机とイスは高すぎて、イスの上に立って教壇の先生の話を聞いてい
ました。私は見ませんでしたが、上級クラスの小学生たちは関数を学んでいたと
いうことでした。インドで数字のゼロが発見されたのは有名な事実ですが、
そこまで数学に強い民族だとは知らず、恐るべき子供たちだと思った次第です。
教育の機会。ここでもその大切さを思いました。ストリートチルドレンは自分の
意思で教育を受けにやってきます。しかし、スラム街の子供たちは違います。親をまず
説得しないとならない。診療所でもそうでした。家事手伝いだけじゃなくて学校に
行けばもっといいことがある。自分を人間として大事にすることになる。職業がよくなる
とかカースト制がなくなるとかいう物理的な成功や利得ではなく、限りある世界でも
自分の人生を豊かにして自分を誇りに感じられることが本当の幸せ
なのであり、
それを感じさせてくれる場のひとつが夜間教室。それが親たちの間でわかるようになった
ので、今は夜間教室に沢山のスラム街の子供たちが集まり、日中のきちがい沙汰とは
うってかわってまじめに目を輝かせながら勉強をしていたのです。

さて、この日からの宿は州立大学のゲストハウス。ゲストハウスというから
それなりに客を迎えるような設備が整っているのだろうと思いきや、
まず水が出ない部屋に通されました。シャワー、風呂はいうまでもなく、
洗顔、歯磨き、洗濯、そして、トイレの水も出ない。いままでもヨーロッパ
や南米の民宿で似たような経験はあったけれど、さすがにトイレの水がない
という事態はなかったので困りました。暑い中、友人とともに水が出る部屋
からバケツ5杯分ぐらいの水を持ってきてトイレなどに備えました。
ぼっちゃんトイレならよかったのに、”水のでない”水洗トイレなので、
用を足したあとはバケツ一杯の水の勢いで流すのです。歯磨きはたまたま
買ってあったか、修道院でもらってくる、1Lペットボトルのミネラルウォーター
をちょこちょこと使う。汗だくになったら水で絞ったタオルでごしごし身体と
顔を拭く。もしくは、身体に汚れがたまることに慣れる。洗濯するだなんて
贅沢。それでも、こういう事態に比較的慣れている私達は(?)、上手く
水を使いまわして洗濯も時にしたのでした。
次に時折電力がおちる。夜中の暑さを紛らわしてくれるプロペラ扇風機も
部屋の明かりも一瞬のうちに消えます。復旧には半日はかかるので、結局ほとんど、
夜は明かりなしの原始的な生活をすることになりました。消えたらじっとしているか、
持参の懐中電灯を頼りにするかです。相手の顔が見えないままに話すという
のも相手の顔色をうかがう必要がなく案外と気楽で、本音がお互いにぽろりと
出るいい機会だったかなと思います。
他にも朝起きたら、テンコ盛りの糞が戸口にあって、犯人は庭でうろつく孔雀か犬かと
騒ぐ事がありました。ちなみにその糞はばりばりになって匂いがふっとんではがれやすく
なるまで放置しておきました。
夜は壁沿いにいもりがちょろちょろ。その壁には中の赤さびた鉄骨がみえんばかりに
亀裂が入っていて時折破片がぽろりと寝床におちてきます。
ここでは蚊帳がないので虫除けスプレーを体中につけて蚊取り線香の匂いをかぎながらに
眠りに就きます。
今回は私は経験しなかったのですが、友人の話では、朝、開け放った窓から窓へと小鳥たちが
とびかってモーニングコールをすることもあるんだそうです。
こういう近代的になりきれないゲストハウスに泊るのもまあいい経験でしたが、
いっそのこともっと原始的な宿に泊る方がいいと思わせてしまうのもなんとも
いえず、つくづく州立ゲストハウスの名前がもったいないと思ったのでした。
それとも州立だから近代的にする金がないのか?そういえば日本の国立大学の
設備も古い。公的より私的の方が設備は近代的というのは万国共通なのでしょうか。



1999年8月6日(金)

連日考えさせられることの多い充実した日々のため朝方からの勉強会は
はっきりいってつらくありました。
なにしろ、その日の朝方、夢にうなされて泣いていたそうですから。
本人はまったく内容をまったく覚えていないのですが
友人の話によるとそうことです。ユングやフロイトという著名な精神科医も
夢診断するぐらいですから、眠っている最中に泣くとは相当な
エネルギーを使っているはずです。泣き疲れるっていうじゃありませんか。
朝っぱらからの勉強会はぼーっとするに決まっています。
でも、せっかくの機会を逃すのはもったいないのでとりあえず参加。

聖ザビエル社会福祉サービス協会(XSSS)の事務長と数人の
ソーシャルワーカーとの会話でした。はじめ、現地語→英語→日本語という
通訳形式の聴講であったため、睡魔とあいまって、何を言っているのかよく
わかりませんでした。通訳をしている学生は偉いなあ、暇のない社会人には
できないことだよ、とわけのわからないことを思う反面、一人だけ流暢に、
でも、きつい口調で英語をしゃべる30代らしき協会の女性が気になって
いました。なんかまるで「寝るなんて失礼です!」といわんばかりに聞こえて・・・。
ちなみに居眠りしていたのは私だけではありません。言い訳?
あとで、その女性がその協会のトップから二番目の人(つまり事務長)と聞いて、
意外にもインドは女性の社会進出が日本よりも進んでいるのではないかと、
思った次第でした。
居眠りしながらちょっとずつ聞いた話は以下のようなものでした。いいかげん
なりにもそれらについて感じたことも添えておきます。

スラム街で子供銀行を設立:親からもらったこづかいはそのままギャンブルや
嗜好品に使ってしまうので、せめて日銭はスラム街全体で貯めて、衣服代や食事代として
おろして使うようにするもの。余分なお金が貯まれば、学資にもなる。スラム街
から出て生活するための資金源。彼らの稼ぎを考えると気が遠くなるような計画だと
思ったけれど、いつか、その資金を土台にして世界的に活躍する人物が現れたら
いいなあと思いました。

同協会の代表は大統領から功労賞をもらったことがある:過激な宗教間の闘争に
よる不安定な和平ではなく「人々をまとめて導いた平和」の方がよいということで。
9割を占めるヒンズー教に対して少数派のイスラム、キリスト教が手を組んだだけ
でなくヒンズー教穏健派とも手を組んで、インド国内の和平を呼びかけたことが
認められたもの。
これって何もインドだけの話ではない。インドネシア、コソボ、ボスニア・
ヘルツエゴビナ、北アイルランドなどなど。どんな宗教でも多分、根本は、限りある命を
全うするためにはどうしたらいい?ってことだと思うので、やっぱり、けんかする暇
なんてないと思うのです。
憎しむエネルギーを愛するエネルギーにどれだけ転じることができるかが命の充実
さを決めるんじゃないのかっ
て思うのは考え過ぎでしょうか?

スラム街の予防衛生計画:10名以上のヘルスワーカーが常時、衛生に関する教育
→予防→補強をスラム街の人々に行っている。結核(TB)、マラリア感染に増して
今予防が急がれているのがエイズ。2年前に調査をはじめたばかりで、どれぐらいの
人数が子供も含めて感染しているのかつかめていない状況。必死に、子供売春の防止、
フリーセックスの注意、コンドーム着衣の推進、注射器の使いまわしと消毒不完全に
よる感染防止、住所移転先の確認などの点で教育を施している。現在、インドは世界
第一のエイズ感染国だといわれている。途方にくれる問題である。
ここでも「医療衛生の認識がない」「基本的人権がわからない」から教育が
はじまり、投薬や医者による対処療法の必要性は二の次であることを思い知らされ
ました。

長年かような問題にとりくんできた出席ソーシャルワーカーたちの声:
1)14年働いていてスラムの人たちや周りの人たちから支援を得られず
自分がまちがっているのだろうかといまだに思うことがある。
(男性ワーカー)
2)コラムニストをやめてから20年この仕事をしているが女性組合などの
成功例があるとがんばりがいがある。(女性ワーカー)
3)シスターに誘われて教師の道からこの道に移った。
女性の参加が少ないとフラストレーションがたまるが、セクシャルハラスメント
問題に女性が多く参加してくれたときはうれしかった。(女性ワーカー)

女性の地位の低さと彼らの積極性をひきだすのに苦労しているのが伺われる
一方、やはり、これまでに地道ではあるけれども達成、成功があったからこそ、
長年ソーシャルワーカーという仕事ができたのだというのがひしひしと伝わって
きました。日本にも同じ名前の職業をもつ人たち(資格では社会福祉士)がいます。
国や文化は異なれどきっと同じような思いを抱きながら日夜仕事をしているのだろう
と思いました。ソーシャルワーカーとは「何でも屋さん」なんだよ、ある日本の
ソーシャルワーカーが話してくれたことがありますが、「何でも屋」というのはただ
の「物知り」ではなくて「他人の人権の欠けた部分をどうにかして工夫して補う人」
ということなのだとやっと分かったような気がしたのでした。
「尻拭い」「余計なお世話」とは言えない。社会が赤子のように便を垂れている
ところがあるから親のように彼らはその尻をぬぐって世話をする。社会が成長を
止めない限り、必要不可欠な人たちなのです。そこには途上国、先進国の違いは
ないです。

午後は、眠い勉強会から開放されて、小雨が降る中、ガンジーの博物館(生前活動
拠点かつ住まいにしていたところ)にでかけました。そう、アーメダバードはかの
有名なガンジーの出身地なのです。それも知らなかったけれど、彼のしたことも忘れて
いました。とても南アフリカで弁護士をしていたとは思えないほど質素な住まい
でした。博物館で感動した彼の言葉をそのまま転記します。訳下手なのは勘弁して
ください。
驚いた点がいくつかあるので述べておきます。
・日本が好きだったこと(見猿聞か猿言わ猿の像が博物館に置いてありました。
非暴力に通じるものを感じたのでしょうか。)
・ヒンズー教徒なのにキリスト教のような考えの持ち主であったこと(今回の旅の
テーマのひとつである教育の機会に対する考え方、非暴力の発想、人生観が
似ていると思いました。私が感動した言葉にそれが伺われます。ガンジーが
学んだ土壌が西洋<イギリス留学などだからなのでしょうか。)
・塩の道の行進(当時の植民者イギリスが産した塩を使わないという固い決意を
示すためにインド洋の塩めざしてデモ行進を1000km以上?もしたのだ
そうです。のまず食わずで何日という飢餓デモをしたのは学生時代の教科書で
知っていましたが、そんなこともしていたのかと・・・。マラソンみている
感覚と同じで、周りの人は、はじめは何ちんたら走っているんだろうとばかに
して、次はそんなに苦しいならやめればいいのにってあきれかえって、最後
にはしようがないばかだからついていてやるかって応援するようになったの
かもしれません。そういえば、発明にしても発見にしてもそういうルートを
たどるようにできていますね。偉大になるのってまっしぐらに自分の思うこと
に真剣になることが案外と近道なのかも。とかいってそれを意図・期待して
やると人のこころは動かせないんでしょうけどね。凡人はかく思う訳です。)
・奥さんの二人三脚のような運動参加による支えが終生ガンジーの初志を貫徹
させていたということ(決して一人でがんばっていたわけじゃないところが
人間的でほっとします。落ち込んでいるとき奥さんによくはっぱをかけられて
いたそうです。本人が語っているのですからそうなのでしょう。)
一応、おさらいとしてガンジーが掲げた運動を先に述べておきます。

1)スワーデシー(国産化運動)
2)サルウェシ(すべての人の社会福祉)
3)アインサー(不殺生、非暴力)
そして、この運動が第二次大戦直後のアジア・アフリカ・中南米の途上国が
植民地から脱却して大量独立する促進剤のひとつになったそうです。

Demoracy

My notion of democracy is that under it the weakest should have the same
opportunity as the strongest.
No country in the world today shows any but patronising regard for the
weak.
Western democracy, as it functions today,is diluted fascism.
True democracy cannot be worked by 20 men sitting at the centre.
It has to be worked from below by the people of every village.

民主主義

私が思うに、民主主義のもとでは一番弱い者が一番強い者と同じ機会を
持つべきだ。
今日、世界のいかなる国も弱い者について擁護する態度をとらないでいる。
西欧の民主主義は、今日機能しているが、それは堕落した独裁主義だ。
真の民主主義は20人の紳士が中心に座っているのでは機能しえない。
真の民主主義は彼らの足元からわきあがる、あらゆる村(世界中)の
民衆の力によって機能すべきものである。

My life is my message.

私の人生(命)は私の使命。

To learn about the non-violence of the brave we will have to learn new
lessons. I will admit one thing, that to learn it I will have to die,
But you don't of course expect me to commit suicide, to strangle
myself.... then, I can not teach you any lesson in non-violence.
The non-violence of the brave can be learned when someone tries to
murder me, to kill me.
Even then...There is nothing brave in that, in someone killing me,
That is no dying.
But yes, if even then I say to myself, "Oh God, please bring no harm to
come to him".
When I am able to say this and die with a smiling face,
then you will say "This is non-violence of the brave"

June 16, 1947(Gandihiji died in 1948)

非暴力という勇敢を学ぶには新たないくつもの課題を学ばなければならない。
そのうちのひとつとして認めることは、あなたがそれを学ぶためには
私は死ななければならない。でも、もちろんあなたは私がのたうちまわって
自殺することを望んではいないだろう・・・。そんなことをしたら、
私はあなたに何も非暴力についての課題を与えることができない。
非暴力という勇敢を学ぶことができるのは誰かが私を暗殺、つまり殺そう
とする時である。
たとえそうなったとしても、誰かが私を殺すという事実にはなんら勇敢は
見出せない。それは自分で死ぬということではないから。
ただそういう場合でも勇敢だといえるときがある。それは自分にこう言う
ときだ。
「神よ、どうかこの者に危害を加えないで下さい。」
これを言うことができ、笑顔で死ぬことができれば、私はあなたに
言うだろう。
「これが非暴力という勇敢だよ。」


1947年6月16日(ガンジーは翌1948年に<暗殺され死んだ>)

私はこの最後の言葉にキリスト十字架張り付けを想像してうなってしまい
ました。自分の使命をまさに自分の人生で全うさせてしまったわけです。
人ってそれぞれに与えられた使命があるのでしょうか?
もしそうなら彼は幸せだったでしょう。生きているうちにその使命が
わかったのですから。おかげで土壇場で疑問を抱きながら死なずに
すみました。でもわかった使命が苦しいものであるならば、嫌になる、
そんなこと知りたくなかった、と思うこともしばしばだったにちがい
ありません。人はなにかを喪失すると必ず多かれ少なかれ、
「否認→混乱→受容」の道をたどるのは、キューブラーロス医学博士や
デーケン哲学博士の話を知らなくても、だれしもが経験済みで納得する
ことでしょう。その道をたどる際にこのガンジーの言葉も使えないかなと
私は思うのです。たとえば、末期ガンになった親が遺される子に向って言う
としたら、ガンはさしずめ「暗殺者」。「私はガンに殺されるけどそれを
受けいれてから死ぬつもりだよ。確かにこわくてたまらない。でもね、
それが勇敢ってことだと思うんだ。」なんていう会話が親子でできたら、
と思うのです。告知していない、本人が話せない、または、もうこの世に
いないのなら周りの大人がしてあげるのがいい。それが「癒す」ということ
じゃないでしょうか。

その晩はまた勉強会でした。「教育の機会」が貧しさから開放すると
いうものでしたが、心に残ったことは、話した神父が化学博士だから
でしょうか、サイエンス(科学)&テクノロジー(技術)がその役割を
果たす、と熱心に話したことでした。彼は、数年前にノーベル平和賞を
得たインドの経済学者アマルチア・センの言葉「依存ではなく自立を求める
ならば資源が必要でそれは教育である」を引き合いに出し、貧しい人には
その教育の機会がない、だから、それを技術で補うのだといって、
金持ちが家庭教師制度を使うならば農村の人々はコンピュータで
大勢の子供の学力アップをはかるのだと言いました。
にわかに信じがたい発想でしたが、実際やっているし、徐々に成功を
おさめているそうです。とにかく、繰り返し→確認→強化を
コンピュータ導入で補うことで自尊心、集中力、自信を身につけるように
するのだそうです。勘違いしてはならないのは、生徒がコンピュータを
触るのではないということ。先生が繰返し行われるテストの記録管理をする
のを容易にすることで短時間でいっきに大勢の子供の学力を高める機会を
増やすということなのです。日本ではもう当り前の受験前の模擬試験の
偏差値データをコンピュータで管理するのに似ていると私は思いました。
その神父がなかば声を荒げていっていた事がありました。
「テクノロジーは悪いものではない。どんどん利用するべきものだ。
それを使う人に問題があるだけだ。テクノロジーは人間に悪いものだと
思われているけれどそれはまちがっている。ちゃんと責任をもって
使えばいいものになるのだ。
アメリカは特許特許といっては自分が莫大な金を使って開発したことや
発明したことを世界の人々に公開しようとしない。だからいつになっても
インドや他の途上国は途上国のままなんだ。それは不平等だ。
特許をなくして無料で公開して、同じスタートラインに並ぶ機会を
つくらないで、どうしてテクノロジーをいいものにしているといえるのだ。
テクノロジーは万民のものだ。」
確かにそう。彼はアメリカを攻撃していましたが、その裏には
日本もそれに荷担しているじゃないか、やめないか?テクノロジーにおいて
先進国だというなら、それらしくテクノロジーの真っ当な使い方をみせて
みろよ、という問いかけがあったように思われました。
途上国って結局はいわゆる先進国から教育の機会が奪われているから
途上国なのだろうか?では日本は先進国なのだろうか?テクノロジーは
あってもその使い方は上手いとはいえないもの。知識があってもそれを
使う知恵がないのではばかだ、教育を受けたとは言えない。それを
つきつけられているような一夜でした。



1999年8月7日(土)

朝から妙に疲れた日でした。申し訳なくも朝からの勉強会では終始
居眠り。さすがに一週間たってからだが限界に達したようです。
特にスライドショーでの聴講は寝てもいいよといわんばかりでした。
あとから教授してくれた神父は「よく寝ていたね」と笑っていました。
お粗末だったことはまだありました。「今日は何の日ですか」と
スペイン人神父から問われたのですが、学生も社会人の私も一瞬
気づかなかったのです。
「広島原爆投下の日だよ。みんなで黙祷しましょう」
そう言われたとき、恥ずかしく思いました。
東海臨界事故のときもそうでしたが、原子力の恐ろしさを経験していながら
なんか人事のように思ってしまう自分をも含めて日本人はなんなのだろうかと。
ちなみにその日のインドの新聞には広島の少女が祈りを捧げている姿の写真と
ともにトップニュースのひとつとして広島原爆投下記念日と世界平和の記事が
ありました。

勉強会のあと、私達は数人の学生とともにアーメダバードで有名な私立大学
(私たちがお世話になった修道院経営の大学であり、スラム街の子供達に
教室を開放しているところ)の学生数人と談笑しました。心理学を専攻して
いるという女学生はしきりに渡米留学したいと言っていました。理由は
インドで職がないこと、たとえ職があるとしても私立大学のあとに州立大学
を卒業しないと手に入れることができないからでした。しきりにさっさと
インドを出てアメリカで仕事をしたいと語る彼女に一種のうらやましさと
疑問を感じました。彼女はインド人なのです。インドを豊かにする才能を
持っているはずなのです。なのに国外逃亡のような考えをするのはなぜで
しょう。自分さえよければいい、社会に貢献しなくてもいい、という
ものの考え方は、日本の若者にもよくある傾向です。しかし、もしそのまま
インドを出てしまったらインドは大事な国力を失い、彼女は生まれ故郷を
失うのではないかという疑問があるのです。また、いくら能力があっても
金がないために小学校にも行けない人がインドにはいるのです。日本人の
私でさえ留学はうらやましいことです。日本では社会人が働きながら通
える教育システムはまだまだ乏しいです。ましてや、仕事を一度やめて
学校に通い直してから就職することはよほどの能力がないかぎりできない
のが今の日本です。経済的にも年齢的にも社会的にも。もっと教育の機会を
社会人に与えることでより柔軟な発想に満ち、生き生きとした社会が
形成されると思うのは思い過ぎでしょうか。金があるから留学しそのまま
海外で仕事をする可能性を持つ彼女に対して、少ない資本でコンピュータ
技術を使ってSOHOという形の職業を興す日本人たち、コンピュータを
導入することでスラム街の子供達や落第生の学力向上をはかるインドの神父
たちの姿が浮かんできました。既存の概念を打ち破り新たな機会をつくる
試みに技術を使う世界がもうすぐそこにあるのだと思ったのでした。
なお、「心理学の方面で活躍したいのか」と彼女に尋ねましたが、
「まだわからない」とのことでした。
必ずしも大学で学んだ事が将来志望するの職業に直結する訳ではないことは
どこの国の大学でも同じなのだなあ、と思いました。
「スラム街の子供達に教室を開放する事をどう思うか」と尋ねたら、
「いいことだと思うわ」と他人事のようにさらりと言ったことでした。
そんな彼女に感じたことは、彼女は現実を何も知らないで生きているのだと
いうことでした。
なんで日本人である私がその現実を知っているのか。
有名私立大学の隣にスラム街があるのに何も知らないでお互い一生を
暮らすことが可能な世界。誰が悪いともいえず、なんかいたたまれない
気持ちになってしまいました。ただ双方ともに無知であることがよくない
それを打ち破ることができるかもしれない確実な方法は教育の機会を
用意すること。その機会のなかで自らの力で真実に気付いてよりよい
人生設計をたててほしい、と願って傍で手を出さずに見守ること。それが
援助というものなのだろう。国内であろうと国際であろうと医療であろうと
教育福祉であろうと、援助の名をつくものはそうであるべきだと思った
次第でした。そして、私もきっと無知な部分はまだまだあるのだろうから、
いつもアンテナ高くして好奇心を持とうと思ったのでした。

さて、大学をあとにして午後、私達はヒンズー教寺院に行きまし
た。それは、牛が放牧され、農業にいそしむ人々、というのどかな
田園風景の中に突如現れました。生き神をおまつりしているそうですが、
なんか、テーマパークのようで、神聖さや厳かさが全く感じられません
でした。できたばかりの薬師寺みたいといったら失礼でしょうか?
唯一よかったのは庭園でした。きっと花が咲き乱れたら来世とか楽園とは
こういうものだとインドの人は感じるのだろうと思いました。
人が集まらない寺院は寺院にもならなければ遺跡にもならない。
ガンジーの住まいが質素だっただけに、人をひきつけるのは、
金や権力による豪華さではないのだなあと、思いました。
さて、私はアーメダバード滞在中ずっと外出するたびに
静かに寄り添っていた、30代とおぼしきシスターと70歳はいっている
と思われる細身の老人が気になっていました。この2人は対照的で
シスターは笑うことがないに等しく、むっつりしっぱなしでした。
何が面白くてつきあってくれているのだろうか、やはり、観光客だと
思われているのかなと、思っていましたが、とうとう笑ってくれたとき
がありました。ガンジー博物館でトイレがみつけられなくて右往左往した
ときでした。雨がざーざーと降り始めるなか、シスターは慌てくさる
私達をみて大笑いし、持っていた傘をすっとさしだしてくれたのでした。
あとにもさきにもそれっきり。でも、なんかとってもすてきな笑顔でした。
老人は終始微笑みを絶やさない人でした。私達を子供のように眺めて、
私の印象では、子供好きだったという詩人、一茶や流浪の子供好きの坊主
(名前を思い出せません)、に似ていました。はじめ、その人は神父だろうか
と思っていたのですが、スラム街のお仕事をしているとのことでした。
友人の話ではやはり、スラム街の子供たちが寄ってくると、
その老人は頭をなでては私達に対するのと同じにこやかな微笑みをしていたと
いうことでした。
なお、この老人にはちょっと驚かされました。というのも、私が昨日の朝
夢にうなされて泣いていたことを知っていたからです。友人が事前に
話した訳でもありません。「なんで知っているの?」と尋ねたらその老人は
胸に手をやりながら不思議なことを言いました。
「こころで聞こえたんだよ。」
でもその答えを聞いても私は怖く思いませんでした。
あと心に残るアーメダバードの人達は、朝は線香をくゆらせ、夜はまめ電球で
赤く光らせたヒンズーの交通安全の神様をまつりながら、毎日私たちをあちら
こちらに運んでくれたバスの運転手のおじさん。そして、なかなか年齢を
打ち明けてくれなかったはにかみやさんながらも自分の仕事に誇りを抱いて
やっている風の、そのバスのウインカーがわりにドアにぶらさがっていた少年。
(要はバックミラーもウインカーもそのバスにはなかったのです)、
修道院でせっせとおいしいご飯をつくってくれた若い修道士とコックさんと
その家族。まさかインドでホワイトグラタンやチョコレートケーキを
ごちそうになるとは思わなかったので、そのこころ尽くしには感謝しました。

アーメダバードを去るのは明日。疲れがたまって咳き込むようになった
私の頭の中では、数日で出会っては別れた、いろんなアーメダバードの
人達の顔が走馬灯のように浮いては消えて行きました。どうも熱があるよう
です。



1999年8月8日(金)

この日は早朝、ボンベイ行きの飛行機に乗るため、大学の学長さんで
あり、私が感激した不可賎民出身の神父さんにアーメダバード空港に
車で送ってもらいました。今日は葬式だの講演会だのやるお仕事が
たくさんあったにもかかわらずにです。ご自身の運転で。約30分の
道のり、名残惜しくてその神父さんに前から不思議に思っていたことを
話しました。
「キリスト教には天国と地獄というのものがありますが、信者でないと
みな地獄に行ってしまうのですか。」
「そんなことはない。イスラムであろうとヒンズーであろうと仏教であろ
うとみな天国に行くことは可能だ。それに天国や地獄は人が全うに生きる
ために存在するのであって、あらかじめ用意されたものではない。
「え?ではなんでわるいことをすると地獄におちるぞ、なんていうの
ですか?」
「キリスト教では命は一回しかないと考えているんだ。その一度しかない
命をちゃんと生きないと怖いことが待っているかもしれないよと
脅しているわけさ。」
「でも、キリスト教では復活(よみがえり)があるじゃないですか。
命が一度きりというのは通用しないのでは?」
「復活したのはキリストだけであってキリストは人ではないから
可能だった。」
「じゃあ、仏教には輪廻転生の考えがあるけれど、復活をどう違うのです
か?」
「根本的には変わらない。違うのは死んだ後により下等な生き物に生れ
変わるということだ。ちゃんと人としての人生を大事に生きないと遣り
残した課題を人としてではない生き物で達成しないといけない、というの
が仏教やヒンズー教での教え。よみがえってももう二度と人間にはもどる
ことはできない。だからどんな宗教でも命は一回しかないということを
言っている。天国や地獄という話や、輪廻転生でより下等動物になりさが
るぞ、という話でもって死後のことを考える余裕があったら
今をいかにいきるかに専念する方が命を全うすることになるんだ、と
説いている。」

「そうか。別に天国と地獄があるわけじゃないんだ。今いきているこの
瞬間を大事にするために死後には天国と地獄という賞罰を自分の心の中に
あえて課しているのが信者さんのしていることなんだね。」
「そう。本来、宗教は死後のことを語っているのではなくて今を
どうやってきたらよいだろうかというひとつの指針を提供するもの
なんだよ。」
この話をして、私は長年の疑問が解けてうれしかった反面、哀しくなり
ました。コソボや東テイモールでの宗教戦争は死後のことを考えて
生きている人達がやっていることなんだなあと。勘違い。神のために、
天国に行けるから殺し合いをする。本当は宗教は今ある自分の状況を
その都度受入れながらも限界を打ち破るように最大限の力を発揮して
自分が豊かに生きる方法を示しているだけなのに。他人をどうこうして
自分だけがよく生きられるようにするなんていうことは言っていないん
じゃないか。すべては自分にはじまって自分におわるのであって他人は
関係ないのはないか。人のこころを動かすのは口や武力ではなくその人の
生きざまそのもののような気がします。
確かに死に向って人は生きているけれど、むやみやたらに死にいそぐもの
じゃない。死にいたるまでどうやって生きるか、それが生れたものの
もつ使命。自殺はわるい、という一般論は、他人に迷惑だという以前に
自分を自分で殺すほどの力があるならほかに生きる選択肢もあるのでは
ないか、だからではないのか。どんな宗教でも自殺すると地獄におちる
との教えだそうですが、その意味は、自分はどうしようもなく哀しい人
なのだという強い思い込みで造った地獄という世界に身を投じているだけ
にすぎないのは、先の神父も語ったところです。人は思い込んでいると
まわりのものごとがみえなくなるのは日々の生活でも感じることです。
その思い込みに気付いては手放して、ありがとうとごめんなさいを
言って、また思い込みにつかまって・・・の繰返し。でも手放すと視野と
限界が広がるのはまちがいありません。以前ある人にいわれたことが
ありました。
「あなたは数年前にその人を見たけれど会ってはいなかった。
いまやっと出会いましたね。」
これはつまり、思い込みや先入観でこころが縛られていて、あきめくら
になっていて、こころを通い合わせることがなかったということです。
出会いとはそういうこころの触れ合いだということです。
そういう出会いをたくさんできることが思い込みから自分を開放する
きっかけになるのでしょう。そういえば、こういう話題で最近、人を
からかいました。
正解をみつけるのが人生の生き方の正解なんじゃないの?
つまり自分が納得いく生き方を試行錯誤しながら日々みつける作業が
最期には当たりなんだということです。答えは一つじゃないのです。
「なんかやり込められたような気がする」とぼやくその人ににやにや
と笑ってしまった私でした。命を全うする。実に難しい問題です。
どんな死に方であろうと、できれば死ぬ直前に、ああ充実した人生だった、
と頭の中にふわっと描ければ私は幸せだというのが最近の私の思いです。
さて、他の人の死生観はどんなものなのでしょうか。

飛行機でアーメダバードを発って数時間でボンベイにもどりました。
今度は老神父抜きの旅です。しかし、旅のはじめに会った人ばかりに
再会するのでちょっと楽です。とはいえ、だいぶ疲れがたまっていた
私はついにお腹をこわしてしまいました。日曜日の朝のキリスト教の
ミサ(礼拝)に宿泊先の修道院の近くで参加させてもらいましたが、
心の中は「はやくトイレにかけこみたい」でいっぱいでした。
友人は自分が当初なったのとと同じ症状だと判断すると薬を分けて
くれました。なんかまるでそうなることが決まっていたかのように
きっちりと3日分の薬が残っていました。3日すれば治る症状なのです。
でも、そうとわかっていても、11日には日本に帰国する私としては、
たちのわるい腹下し(赤痢)でないことを願っていました。
かつて別の国で法定伝染病である赤痢にかかって治るまでは日本では人から
隔離されると聞いて絶句しました。いくら衛生上とはいえ、闘病生活を
ひとりぼっちで送るというのは、せっかくの免疫力をおとしてしまい、
体を治してもこころの病気をつくり、長引かせるというのが持論です。
ハンセン氏病(らい)、結核、精神病、エイズ。いずれも社会から隔離されて
治療することになっていましたが、近年、隔離の壁がなくなってきています。
病気というのはこころもひっくるめた身体全体におこる異常なのですから、
こころのケアもしないと治るものも治らないと思うのです。医者は人との
出会いの連続です。臓器を診ているのではありません。患者とこころの触れ合いが
なければ真の診療は成り立たないと思います。幸い、今回の旅では友人が
赤痢になった人を知っていたので、恐れることもなく、つきそってくれ
ました。身動きができなくなってきた私のかわりに旅のいろんな手続をして
くれました。旅の道連れのありがたさを感じました。なお、3日後、本当に
ぴたりと腹下しが治まったので安堵しました。赤痢はそうはいきません。
もっともかわりに風邪の咳き込みが激しくなってきたので、そう簡単によろこべ
ませんでしたが。

さて、修道院のベッドとトイレを行き来しては眠った後、予定していた
日本人の方に会いました。某メーカーのインド駐在員です。
たまたま家族は帰国中で一人住まい。はじめ、お会いした時はもうしわけ
なくもインド人とみまちがえました。真っ黒に日焼けした笑顔で出迎えて
くれた駐在員の方はなぜか運転をしません。社用車だったから?
違います。やはりインドは交通不安全で有名な国なのです。会社から運転
禁止令が出ているそうです。以前、駐在員の奥さんが某国で運転事故を
起こした結果、刑務所に入り、離婚に至ったという悲惨な話を聞いた
ことがあるので、会社がそのような措置をとるのもうなずけます。
さっそくボンベイ市内を車でめぐってくれました。
どこへいっても人、人、人、車、車、車。道路が舗装されていないのと
不衛生なためか空気が茶色く濁ってむっとします。車の中でいろんな話を
しましたが、中でも面白かったのは、インド人には、冷蔵、冷凍という
観念がないということでした。かくもむし暑く、スパイシーなカレーで
有名な国だというのに、確かにこの旅で氷をうかべた、または、冷たく
した飲料をみかけたことがありません。カレーを食べる時はチャイという
これまたスパイシーでミルクたっぷりのあたたかい紅茶を飲むのが
一般的です。ソーダ類にしてもなんか冷たくなく、つーんと鼻にくる刺激
の方がつよく感じられます。冷蔵庫も10年前ぐらいまでは
普及していなくて、今も冷蔵庫の温度設定は生ぬるく、とても肉、魚類の
鮮度を保てる状態にないそうです。そのため、インドに駐在する日本人
は保冷箱にやまほど凍った牛肉、豚肉、鮮魚の類をいれて日本に一時帰国する
折に空輸し持ち帰るとのこと。ちなみにインドでは牛豚は宗教上の理由で
食べません。挽肉のカレー(キーマカレー)はなんとヤギの肉を使っています。
なのに品名はマトン、つまり、羊です。どうしてこうなっているのかは不明。
一方、魚介類は鮮度を保つのがまだ難しいため高級品です。香辛料たっぷりの
料理ばかりであるのは、熱帯雨林気候による腐敗の速度を遅らせ、人体をに
ばい菌から守りつつ、免疫力を高めるためなのでしょう。冷たいものを飲まない
のは長年の知恵から体の理に適っていないことに気付いたからでしょう。
お腹がわるいにもかかわらずカレーを食べたくないとは思わなかったことから、
妙に納得してしまいました。本当かどうかわかりませんが、何もかもが衛生で
新鮮な日本の冷たい水を飲んでインド人の出張者が腹を壊したそうです。
適度に汚い、適度にきれい、というのが、いちばん体にいいのかもしれ
ません。とかいう話をしつつもいつのまにか、とろけるようにおいしい
と駐在員の方が強調するマンゴー、アルフォンソのアイスクリームを
買うことになっていました。だってアルフォンソは一定の時期しか
出回らないから、今食べるとしたらアイスしかなかったからです。
友人はとっくの昔に胃の調子を回復していたので、
「大丈夫、かわりに食べて上げますよ」と、はしゃいでいました。
車は「王女の首飾り」というボンベイ市民の憩いの浜辺沿いに走り、
ゆるやかなカーブをまがりのぼって山の手の高級住宅街へと向いました。
夕闇が迫ってくる浜辺にはきらきらと住宅の明かりがまばたきはじめ、
なるほど「王女の首飾り」というわけだと思った次第でした。
立ち寄った31バスキンロビンズのショーウィンドウは質素で
日本でイメージするピンク色で飾ったアイスクリーム屋とは対照的です。
実を言いうとこれは別にアイスクリーム屋に限らず、高級品のお店やスーパーも
ショーウインドウというものが存在せず、扉をあけてみてびっくり豪華
というパターンが多いのです。サービス精神がないのか、ショーウインドウに
価値を見出せないのか、それともガラスを割って泥棒する人が多いからなのか?
どれも本当のようでいながら実際のところはわかりません。
駐在員の方が大好きということで、アルフォンソアイスクリームと
パイナップルがごろごろ入っているアイスクリームを500ml
ずつたっぷりと買いました。私はスプーン一杯の試食で我慢。
山の手の高級住宅街にある駐在員のお宅には驚きました。
まず城壁があるのです。約25階建ての高層アパートとその周りにある
公園やプールや駐車場がすべてコンクリートの壁で囲まれ、壁の入り口
に警備員が銃をもって立っていて、人の出入りをチェックしているの
です。これは私たちが泊った修道院でもそうでした。中に入ると別世界
なのです。貧富の差からくるものなのでしょうか。他人はまず疑え、という
ことが前提の社会のようです。でも、見ただけで日本人だわかるからで
しょうか、私たちは顔パスでした。そういうところが抜けているというか
いいかげんです。実際、駐在員のお話によると、最近も壁を乗り越えて
泥棒が入って車が荒らされたということでした。
お宅はエレベーターで上がって19階にありました。入るとボンベイの
湾が真正面にみえ、日本で言うところの高級リゾートホテルのようです。
日本式に玄関ではだしになってお邪魔しました。でもあとからみたら
女中のインド人もはだしで台所を行き来していました。その辺は欧米式
に靴のまま家の中を歩くわけではないようです。駐在員の方はほかの
会社の駐在員の方も招いてくださってささやかな和食の宴をして
くれました。電子レンジで温めなおした冷凍帆立、冷凍しゅうまい、
しめさば、お湯でといたインスタント味噌汁、あったかい白いごはん、
そして、なぜか、青菜のナムル。一見どこが宴なのだと思う人もいるかも
しれないけれど、どれもインドでは手に入らない貴少なものばかりなの
です。駐在員の人達はそういう食品を日本に一時帰国するたびに仕入れて
は貯え、日本と似たような生活を保つのです。確かにインドに来たの
だから「郷に入れば郷に従え」で、カレーの毎日にするものなのかもしれま
せん。でも、駐在員の人やその家族は仕事で余儀なくされて愛着のある日本
から離れて生活しているので、インドが好きで居着いてしまった人とは
ちょっとわけが違うのです。新聞、雑誌、ビデオ、カラオケ音楽も日本
から時差つきで入手します。かつて中南米で赤痢にかかって寝込んだとき
も、私がいちばんうれしかったことは、駐在員の奥様が差し入れてくれた
ポット入りのお湯でといたインスタントおかゆにうめぼし一つでした。
どんなに現地のオレンジ色のまったりとした南国のフルーツジュースが
お腹によいとわかっていても臭くて毎日飲むのはつらかったので
ほっとしました。今でこそはインスタント食品の種類も増え、輸出入が
許されていますが、当時はお国の事情もあって日本食品の入手が困難
だったので、あともういくつ寝るとお正月ではなく日本食品の到着と
いう感じに指折り数えて待っていた時代でした。通関でさしとめられ
腐ってしまって届いたころには賞味期限切れというのもまれでは
ありませんでした。ですから、今回もお腹の調子が悪くても、白いごはん
と味噌汁を大事に頂いたのでした。そして、ふと、やはり、通関の目を
ごまかして、うなぎの蒲焼きの真空パックか辛子明太子を土産にもって
くるべきだったかなと思ったのでした。いつか明太子を土産でとある
駐在の方に出張で持っていったら
「夜中に一人で晩酌で食うぞ、家族になんか知れたらあっという間に
なくなってしまうからな。毎日ちびりちびりと食べる。」
そのときの子供のようにうれしそうな顔が忘れられません。
旅の前半で老神父が高級ウイスキーの瓶を土産に持ってきたのに
割ってしまったときのうろたえぶりは、この明太子をもらった人の
笑顔が見られない残念な気持ちと同じだったと思うのです。
なお、今回、駐在員の方は言っていました。
「何が恋しいかといったらやっぱり、風呂だよ。風呂おけにいっぱい
満たしたお湯につかりたい。ばかばかしいかもしれないけれど、
ホテルでお湯がでるところがあったらあの薄っぺらいバスタブに
せいいっぱいお湯をはってねそべるんだよ。でも、日本の風呂に
ざぶんと入ってじわじわと温かさが体にしみとおっていくあの感覚は
やっぱり得られない。」
熱帯雨林気候で立っていてもじんわりと汗が吹き出るインドでは
ひとっ風呂浴びて毛穴を全開にしてさっぱりしたいと私も思います。
でもそれって日本人だけの感覚なのでしょうか。
さすがに、お風呂を土産に持ってまいりました、とはいえず、
絶句してしまいました。
いわゆる途上国の駐在員生活は一見豪勢にみえて心の中はとても
不便で中途半端。一握りの上流階級のインド人と同じく駐在の
日本人としかつきあわない生活は果して豊かといえるのか?
家族と離れて駐在する人もいます。「インドは好きだよ」という
宴を共にしてくれた別の単独駐在の方の言葉がなんとなくさびしげに
感じました。
心の穴が塀に囲まれた高級高層アパートの上にぽっかりと浮き彫りに
されたみたいで、山の手の下でうごめく路上生活者の心の穴と比べて
どちらが大きいのかわからなくなりました。天上の孤独も地べたの
孤独も人間である限り同じなのかもしれません。


その晩は夜遅く迄、お話をし、修道院まで車で送ってもらいました。
門限を過ぎていたので修道院の入り口の門はとっくに閉ざされて
いましたが、教会と墓地を横切って入りました。修道院玄関の椅子には
門番の老人が眠そうな顔で座って待っていてくれていました。別に門限破り
について怒られませんでしたが、明かりがすべて消されていたので
泊っていた部屋のドアに鍵をなかなかさしこめず、一部の神父、
修道士を起こしてしまいました。なにせ、翌日、目の見えない老神父に
言われましたから。
「今朝、花火があがるような大音響が聞こえたからね、君たちだって
わかったよ。」
怒られるよりもずっとはずかしかったのでした。



1999年8月9日(月)

旅の疲れは日増しに積み重なっていくようで、この日の朝は目が覚めても
体がなかなか動かずつらいものでした。しかし、どうしても行きたい
ところがあって、友人に連れられるような感じでタクシーに乗って
出かけました。行く先はマザーテレサの創設した施設です。
そもそも今回の旅に参加した大きな理由は彼女がどんな思いで、
修道院を出てスラム街に身を投じ、行き倒れの人や孤児をひきとり
ケアをしたかということを知りたかったからでした。この日記の冒頭にも
記したように、これまでの旅路でも「こころの貧しさ」について
考えさせられてきました。
「誰からも必要とされないと感じるこころの貧しさが生きる力を奪う」
カースト制度という人工的な差別ゆえに不可触賎民は自分達を物と
同じと思い込み、そのままで愛される価値があること自体ががわからない
でいます。だから自信を失い、自分を大事にしません。だから食い扶持を
減らすために捨てられる子供や老人は反抗しません。
一方、上流階級の大学生、一等列車に乗る人、日本人駐在員は物質的には
豊かかもしれないけれども塀に囲まれて外界から遮断された人とのつなが
りに乏しい孤独な世界にいるようにみえます。
どちらがより貧しいかという比較はナンセンスです。
教育の機会を増やし、自信をもたせること。
そして、そういう教育を受けた人達と交流をすることで狭い世界から
抜け出すこと。
こうして、教育水準を同じにすることが双方のこころの貧しさを解決する
というのが私の考えです。
そういえば、同行した老神父はよく語っていました。
「知識があっても知恵がなければ教育とはいえない」
つまり、こころが豊かにならなくてはあたまが大きくなっても貧しい
ままだ、といいたかったのでしょう。
マザーテレサはただ「神様はもっとも小さいものの中にいる」という強い
信仰のもとで、神様に純粋に仕えた宗教人でした。
つまり、次のキリストが弟子に語った言葉をかたくなに守った人でした。
「私が空腹のときに食べさせ、かわいたときに飲ませ、旅人であったとき
に宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄中にいた
ときに訪ねてくれ、私の兄弟であるこれらのもっとも小さいものの一人に
したのは、すなわち、私にしたのである(マタイ福音の一節)」
でも、彼女が指摘した「こころの貧しさ」は物質的な豊かさとは関係
なく文化や宗教をこえて存在する真実であることは、ノーベル賞を得、
中近東の戦争を一時的にとめて病の子達を救い、インドで国葬された
ことからも明らかです。
彼女が行き着いた考え方、「こころの貧しさ」を実証するには実際、
彼女がしたことを体験する必要がありました。だから、病をおして、
マザーテレサの施設に友人と共に訪れました。
そこは路上生活者がちらほらとみえる下町の雑踏の中にありました。
門番のいない入り口からすぐのところに小さな庭のある、こぎれいな
白い平屋の建物があります。建物は二つに分かれ、ひとつは精神遅滞児の
家、もうひとつは身寄りがなく病気末期の老人の家(通称:死を待つ人の
家)です。出迎えてくれたのは10代の精神遅滞の少女でした。
奇声をあげながらも笑顔でした。中に入っていくと白地に青い二本線の
サリーとベールを被ったインド人のシスターに会いました。
「ボランテイアをちょっとだけしにきたのですが何をしたらいいで
しょうか?」
「いつまでここにいる予定ですか?」
「残念ながら数時間だけなのです。」
「よろしいですよ、じゃあ、こちらの子供たちと触れ合ってください。」
と言われて、そのシスターはさっさと姿を消しました。
触れてください?
何をすればいいのか?
お腹の痛みはとまったものの今度は風邪の熱と喉の痛みで朦朧と
している私は途方に暮れてしまいました。
一瞬、子供たちよりも死を待つ老人達と触れ合いたいという気持ちに
ひかれて、隣の棟に行きました。しかし、踏み込めない、と
思いました。言葉もわからず、宗教、文化の違いもわからない。そして
時間がかなり限られている。私が側にいる間にも死を迎える人がいるわけ
です。今思えば、シスターとしては、私がたった数時間で死を直視し
ショックをおこしたまま帰ることは避けたい、と思ったのかもしれません。
人は死に向って生きているわけですが、死を身近に意識するような病気を
せずに生きてきた人にはそれを自分のこととして理解することができない
からです。人は類似体験をしないとそのこころにちかづけないと思う
のです。マザーテレサが貧しさに身をやつしたのはそのためです。
貧しさを語るにはせめて自分が貧しい体験をする必要があると思った
からでしょう。人は他人をわかろうとすることはできてもわかることは
できません。でも、そのわかろうとする気持ちが、すなわち、思いやり
(思いを遣るのですから)なのだと思います。私は死を意識する病になったことが
あったし、自分の祖父母や親の死、老人ホームでのボランテイア活動に
接して、死を目の前にした者の心理をわかる方だと思います。しかし、
こころと触れ合う時間がほんのいっときしかないことに申し訳なさを
感じてしまったのでした。安らかな静けさを乱すだけにすぎないと思ったの
でした。だから足を踏み入れる事ができませんでした。本当は、手を
握って抱擁してじっと目を見つめることが大事だったのに。いまごろになって
ちょっと後悔。友人が繰返し、老人の方々に会わなくていいのですか、と言った
ことが思い出されます。今も触れることが見捨てられた人達にとって最期の
一秒まで生きようとする気概を生む絶対の方法だと確信しています。
世の中にもう何も貢献できない、忘れ去られる、何のために自分は生きて
いるんだ、という悩みが意識されている分だけ子供よりも慢性病の
人や老人の方が苦しいはずだから。いつかまた機会があれば、
今度こそは足を踏み入れたいと思いました。
さて、子供の棟にもどった私は、30名はいると思われる
1歳から10歳ぐらいまでの精神遅滞の子供たちの寝床に近づきました。
あきらかに目の見えない子、口が聞けない子、顔がつぶれている子も
いましたが、一見ふつうの子供とちがわない精神遅滞の子どもが
ほとんどでした。実際、私にしてみれば、皿をなげとばし、ごはんを
こねくりまわし、スプーンで机をたたき、床に散ったご飯をくちに
入れようとし、甘える代わりに腕にかみつき、髪をひっぱりまわす姿は
どこでもみかける子供の風景でした。あっちのベッドの幼児を仰向けに
してねかすとこっちの幼児が泣いて、ぼくもわたしも、とわんわん泣く
のはきっと、人のぬくもりがすぐそばに感じられるからでしょう。
この子供たちが普通の子供たちと違うのはそういうことをする年齢が
ちょっと違うことと親の愛情に飢えているということ。どの子供も奇声
をあげようと黙っていようとも抱きしめられることを好みました。
特に印象にのこっていた子供は顔がくずれていて目鼻がなく口耳もかろう
じてある頭の大きい子でした。どうすればこの子とお話ができるだろう、
と、そっと手で触れてみました。すると弱々しくですが確かめるがごとく
触れ返そうと開いた手を空にさしだします。もう一度もう少し強く触れる
と今度は、抱っこをしてください、というこぶし手を空に泳がせるのです。
そうかあ、抱っこしてほしいのかあ。というわけで、抱っこ成立。彼は
人のぬくもりを確かめるようにいつまでもじっとしていました。そして、
私が離れようとすると、いっちゃうの、いかないでくれよ、と、顔を空に
あげてさまよわせました。三重苦のヘレンケラーの気持ちとはこんなもの
だったのだろうか、とふと思いました。そして、やはり触れ合うことが
人の生きている証しになるとわかったような気がしました。アーメダバー
ドでであった元気なスラム街の子供たちも確か触れられること触れること
でうれしさを一生懸命表現していました。不可触賎民とは触れてはならな
い人々という意味です。孤独や見捨てられたという「こころの貧しさ」は
触れることでずいぶんと解消される
というのが実証されたと感じました。
ちなみに私は子供の圧倒的な生命力に負けた以上に体調をくずして
だるくてどうしようもない状態にあったので、元気な友人とシスターに断り
なく、ロッカーらしきところの腰掛けにすわって休みました。本当は数分のはず
だったのに起きたら1時間たっていました。汗がじんわりと噴き出て熱が
あることがわかりました。慌てて飛び起き、この失態をシスターに謝ると
こう言われてしまいました。
「ではここではよく休めたのでしょう。よかったですね。
薬はお持ちですか?さしあげますよ。」
ボランテイアをしにきたのにボランテイアをされているような気がすると
いうのはよく聞く話ですが、これほどまでにそれを実感したことは
ありませんでした。幸い、薬は持っていたので辞退しました。
それにしても、そのシスターのにこやかな笑顔と機転のよさには驚き
ました。マザーテレサは後継者育成も上手な人だったんだなあと
妙に納得。

午前中ほとんど居眠りをして過ごしたマザーテレサ施設をあとにして
私たちは雑踏の中の小さな店で昼食をとりました。私はまだ身体が
いまいちだったので、2ルピーのバナナの房をほおばりながら
セブンアップを飲みました。たった10円玉一個で昼飯がとれる
この国は貧しいというのだろうかとちょっと首をかしげてしまいました。
同じバナナでも一本100円する日本という国はなんとも食べるという
意味では生きにくい世界だと思わざるを得なかったのでした。
1000円札や100ドル札なんて100人中100人がなぜか価値が
あると思い込んでくれているからバナナ一本よりも高価にみえるだけ
です。その札束に価値をみいださなくなったら食物の大半を輸入に頼る
日本はバナナを山ほど栽培し日々2ルピーで食べられるインドよりも
貧しくなってしまいます。なんとなく株式や為替の変動でお札の枚数が
増えたり減ったりすることに大騒ぎして、バナナに匹敵する食べ物を
栽培することを考えないようになってしまった自分を含めた日本人の
こころの貧しさが怖くなってしまいました。

昼飯のあと、仕事の合間をぬってまたまた車で出迎えてくれた
駐在員の方に甘えてスーパーマーケットに連れていってもらいました。
ずらりと並ぶ袋詰めのカレーの材料となるコリアンダー、しょうが、
オールスパイス、ナツメグ、干しライチー、とうがらし、チリパウダー、
黒こしょう、サフラン、クローブ等の現物をみてびっくりしました。
ちょうど、日本のスーパーでいろんな種類の味噌が売られているのと同じ
状況に外国人が遭遇しているのと同じ感じでしょうか。
ついつい物好きな私は使い道をよく考えずに、手当たり次第に土産物
として買い込みました。本当は言葉がわかればもっと買ったのにと思う
ほど安かったように思われます。インドといったら紅茶なのかもしれま
せんが、結構、料理好きにはスパイスの土産もいいと思う私です。
またアロマセラピーに使う精油も日本の5分の一ぐらいの値段です。
決して質の悪いものではないようです。

さて、この日は行き帰りは私の体調が優れないこともあってタクシーを
使いました。私のいままでの経験に依れば、日本以外ではタクシーの運賃
は事前交渉と決まっています。メーターがなかったり、メーター数字が
めちゃめちゃであることが多く、かつ、言葉と道をしらないと思って遠回
りをされるからです。しかし、体調を崩していた私はそれを怠ってしまい
ました。そんな交渉をするぐらいなら高い金だしてでも連れていってくれ
という感じでしたから。でも、不思議なことに行き帰りのいずれの運転手
さんもやさしかったのでした。道がわからなくなってメーターをとめて、
あちこちにマザーテレサの施設のありかをそこらへんの人にたずねるべく
外へかけだしていってしまう運転手。帰りに友人を途中市場で降ろして
教会の前で降ろしてもらおうとすると、あんたは喉をやられているん
だからちと黙ってな、といわんばかりにメーターを指差し、黙って釣り銭
をくれた運転手。なんか、不器用なんだけど、インド人にもずるがしこく
ない人がいるんだなあと思い、かなり今回の旅でインド人のイメージが
変わりました。

修道院にふらふらともどった私は死んだように眠りました。
友人が市場で量り売りの紅茶を買ってきてくれてうれしく思いました。
3着もインドの女性が着るという服(パンジャビドレス)を買ったのだ
と、そのいきさつを語る友人の目は輝いていました。ともに楽しめたら
よかったのに、とふと残念に思いましたが、その笑顔をみて話を聞いて
それでいいのだ、とも思いました。
また、英語ができないから、といって遠慮していた友人が、私がひっくり
かえったのを機に「旅の前半では私がひっくりかえっていていろいろと
世話をかけましたから今度は私がやります。じっとしていてください。」
と言われたときにはもう涙が出そうになりました。
おんぶになりたくないと思っていたから、おんぶしてもいいんですよ、
と手を差し出されたみたいで、心の中にあったかたくななその思いが
溶けました。やはり旅は道連れ。
お涙頂戴になりそうになった場面はほかにもありました。
最期にお別れの挨拶だけでも、と思って、14年もストリートチルドレン
の代理母をしているハウスパレンツのもとに行くと、なんと子供用の
喉シロップをくれたのでした。かわりになにかを、と思ったら、
不足している、というので、使い終わっていないせっけんとシャンプーを
かき集めて渡しました。
そして、友人が用意してあった富士山の絵が描いてある日本風のハンカチ
と私がたまたま持っていた富士山の写真入り葉書を出会った思い出と
して手渡しました。別れ際、彼女は言いました。
「愛しているよ、私の子。神のご加護がありますように。」
どこまでも母親らしい母だと思った次第です。

その晩、やっとお腹がおさまって普通のカレーの食事を修道院の食堂で
とることができました。いつも台所から鳴り響く鐘の合図とともに
ダダダーっと神父や修道士をめざす若い少年達が二階から降りてきます。
ビュッフェスタイルなので、先を越されるともう私たちの分の食事は
残っていないということははじめにボンベイに降り立ったときからも
そうでした。ですから、鐘が鳴りそうなちょっと前に暗闇の食堂に
友人と2人してインド最期の夕食を待っていました。そこへ今回の
ツアーで別行動をとっているもう一人の学生に出会い、3人で談笑
しつつ待ちました。それをみた台所の人は気を利かせて私たちだけの分を
とっておいた大皿を用意してくれました。
案の定、鐘が鳴ると約50人はいると思われる少年達がたかるように
してどんどん大皿から夕食のカレーをとってゆきます。それをみて
くすくすと3人で笑っていると、数人の若い少年達が寄ってきました。
はずかしいのか、横に座ってちらちらとこっちをみるだけ。
仕方なく、声をかけてあげるとさあ大変。下は17歳上は20歳という
少年達はあれやこれやと質問攻め。どこからきたの?何しに来たの?
いくつ?3人とも友達?などなど。こっちも負けていません。なんで
神父になりたいの?何を勉強しているの?笑えたのは、17歳のまだ
幼さが残る少年がいった言葉。
「彼女にふられたからこの道に入ったんだ。」
うそともほんともいえないこの言葉にみなどっと笑って上級生は
からかって頭をこづき、本人はふくれ顔。
女性がいちばん気になる年頃なのに10年はかかるといわれる修行に
身を投じるのは大変なことだろうと思います。だから誘惑にまけて
女性とはなしたがります。でも勉強の話となると、鼻高々に、もう
英語は終わって今は倫理を勉強しているんだと、答えます。
そして、やはりここでも「神様がのぞまれたからこの道に進んだ」
と真顔でいう少年がいました。修道院の先生が自分の故郷に出向いて
きて働いている姿をみて、その人のようになりたくて、という理由
で、この道を選んだ少年もいました。人や神との出会いや別れが
少年達のいまの人生に導いたことを聞きながら、私も彼らとこうして
出会ったことで今後どのような人生の展開があるのだろうかと
ふと思ったのでした。談笑は食事時間を超えるまで続きました。
気付いたら、つのまにか10数人の少年に囲まれてました。
「明日の朝はまだいるの?」と尋ねる彼らに「明朝、発ちますが、
朝食時に会えるかもしれません」と答えると、名残押しそうな顔を
しつつ、「出会えてお話しできて楽しかったです」と年長の少年が
みんなを代表するかのように答えてくれました。
インドのあとわずかなときをかみしめながら笑って過ごした
最後の夜でした。



1999年8月10日(火)

今日はインドを去ります。友人とともにあわてて土産物をバッグに
おしこめ、半渇きの手洗いの衣類をタオルで巻いて臭いものにふたを
するがごとくに、荷物まとめをしました。
私はあとはひたすらじっとしていました。熱がなかなかひかないのと
今度はちょっとでも動くと咳込むようになったからです。風邪を治す
なら眠るのがいちばん。でも、帰るとなると心中どうしても穏やかに
なれません。目をつぶって走馬灯のように約2週間、インドで出会った
人達の顔を思い浮かべていました。ここに書ききれなかった人達のことも。
人は出会っては別れるようにできている。人によっては一度しか会わない人
もいれば、一方、一生のつきあいの友や家族がいます。でも後者であっても
最後は死という別れがあるのです。だから出会いは大切にしたい。
一期一会とはそういうものでしょう。

そう思ってずっと駆け歩いたインドの旅でした。
出会いは旅の最後の最後まで続きました。
空港でこの二週間で慣れたカレーを昼飯にとりました。そこでは
同じ便に乗ると思われる日本人の中年連れや夫婦に会いました。
「君たちも遺跡を見に来たのかい?アジャンタはどうだったと思う?」
「いえ、私たちはボンベイ周辺しかみていません。遺跡もみたという
ほどでもありません。」
すると、
「へー、美術じゃなければインドの何が楽しいんだい?
わかんないねえ。」
一般的にはインドの旅とはこういうものらしいですね。
でも「出会い」をキーワードにして、いえ、どんなのであれ、
目的がしっかりとしていれば、旅はなんでも楽しいし、得るものが
あると思う私です。
その後、残ったルピーを使い切るため、友人とともに土産物屋とかけひき
三昧。おかげで5ルピー硬貨一枚が手元に。これも私への土産物。
予定の便のカウンターに行けば、パソコンが壊れて隣のカウンターに
並び直し。そうしたと思ったら、パソコン復帰。やれやれどっちに
並べばいいのか。案じて、友人と私と2つの列に並んで早い方で
まとめてチェックインすることにし、それで成功しました。
次に税関を通ろうとしたら、これまた荷物検査の機械が故障。
列は時間を追う毎に長くなってゆきます。朝、修道院を早めに出発して
正解でした。飛行機に乗ることを楽しみにしていたと思われる上流階級の
洋服の正装をしたちびっこ達もだれてきました。まさか手で検査するので
はないじゃないだろうね?!という手つきを一瞬、税関員はしましたが、
やはりそれは大変と思ったのか(なにせ乗客100人はいますから)、
通関の場所変更のアナウンス。100人がぞろぞろと空港の端から端へと移動。
ま、小さな空港なので大した距離ではないですが、土産物と乾いていない
洗い物で膨らんだ大きな荷物を持ち、咳き込む私にはちょっときついもの
がありました。もっとも、このような出来事はインドに関係なく、
いわゆる途上国では当り前の光景です。米国のマイアミ空港でもよく
起こる事態。同じ端から端へと移動するにもこっちは便の出発時刻が
ころころと変わって結果として通関時間が10分ぐらいしかなくて
空港自体がインドと比べられないほどの大きさなので
黒人の荷物運び屋のおにいさんにチップをはずんでいっしょに飛行機
めざして走った覚えがあります。日本ほど時間に正確で、機械が壊れない
国の方が珍しいのかもしれません。
やっと飛行機に乗って離陸。翌11日、無事に日本に到着。今回の
パイロットの着陸は下手くそでした。赤信号目の前で急ブレーキを
かけるドライバーみたい。でも、結構、そういう発着の仕方ひとつの
捉え方次第でも旅って面白くなると思うのです。スチュワードが
かっこよかったとかサービスがゆきとどいていたとかいう以外にも。

さて、インドにもう一度行きたいか?行く直前に数人の方から問われた
ことでした。二度と行きたくないと思うか続けて行くかのどちらかだと。
でも、そんな簡単にわりきれないというのが実情です。つまり、
わからない。もう一度来たいけれど、今回のような体力的に日程的に
ハードな旅はもうかなわないかなと思います。実際、咳き込みがひどく、
この秋までずっと体調が思わしくありませんでした。年のせいか?
それはさびしいことですが、一回きりだから心に残る旅にもなるのだと
思えば、これでいいのでしょう。
機内ではアフリカはキリマンジャロの山に登ってきたという同年代の
社会人の方とお話をしました。インドにも観光地をたずねたことが
あるが、私たちのような一風変わった旅の話を聞くのははじめてだった
ようで、興味ぶかく聞いていました。というか勝手に私がインドの旅を
忘れたくなくて自分の耳に聞かせていただけなのかもしれませんが。
その方からは、モンゴル草原を馬に乗って走る旅の話を仕入れました。
そう、今度の旅はどこと尋ねられたら・・・・・。
いやいや、その手前に、インドで得たことを日常生活で消化しなくては。
その第一歩として、この日記を書いたわけですが、まだ消化不良。
友人に、日記ってどういう意味なのかわかってるのか?とからかわれつつも、
とりあえず、完成してやったぞ、どうだ?!というのが今の心境です。
では、いつもの日記にもどります。もう1999年も終わりです。

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