不安神経症の話
 
こころの病の実態
 
心因反応または不安神経症。
これが1997年の春から発症したゆりこママの長年の持病。
身体的な症状では、左半身麻痺、手足の震え、足の付け根の痛み、猛烈な頭痛&肩こり、耳鳴り、
めまい、一定のものに対する失明、顔の皮膚のただれ、呼吸困難、胸痛、不整脈、不眠症、高熱と咳
など、ゆりこママが経験したものは限りなし。
心理的な症状では、抑うつになって、とじこもり気味になり、ふとんに一日中くるまっていたり、
「電車に乗れない」恐怖症、会社出社恐怖症になったり、食事をつくらず、食事をせず、
ひどいときは死にたくなり、いや、死にたいという感覚はもうなく、たとえば、電車がくると
空白の頭のまんまにとびこもうとする。
パニックをおこして叫び、頭をがんがんとあちこちにうちつけたり、包丁や鋏で自分の髪や指を
切りたくなり(つまり自傷行為)、人への過度の不信感をもつ。
で、いまだにこうした症状は浮いては沈んでいる。
なりそうになったら、薬を飲んで予防する。それでもだめならカウンセリングに行く。
それでもだめなときはある。
 
ここまで読んだ人、ゆりこママは危険人物だと思っただろう。
そう思った方、自分にそういうことがおきないと思っているからだね。
でもそう思ったら大間違い。
誰にでも隣り合わせにあるのが「心の病」
 
心因反応または不安神経症はその代表。
ところでなんで病名が二つ並んでいるんだと気がついた方、確かにおかしいよ。
実を言うと、心の病ほど分類の難しいものはなく、私自身いろいろと調べたのだが、
ICDだのDMSだのいろんな分類方法があって確実な病名はない。
でも、医師としては、処方箋や診断書を出さないとならないわけで、仕方なく、
ゆりこママに「適当に」つけてくれたのが、この二つ。
片方は精神科の先生(心因反応)、もう片方は神経科の先生(不安神経症)。
だから、よくわからないが、身体的症状が強い場合は、内科の先生に
自律神経失調症といわれたりすることもあるわけ。
ほらほら、自分には関係ないなんて言えなくなってきただろう。
 
このような身体症状や心理的な症状をおこす原因が取り除かれることなく
これら症状が繰り返しかつ強力に現れると、
狭義の精神病に移行することもある。(広義では不安神経症も精神病といわれる。)
いわゆる、うつ病、そううつ病、精神分裂病といったところでだろうか。
もちろん、はじめから、これらを発病する方もいる。
真中とって、アルコール症、摂食障害、境界人格例、というのもある。(詳細省略)
それじゃあ、不安神経症はうつ病よりも軽いのか?というとそうでもない。
人の感じる苦しみは他人から比べることはできない。
でも、大きな違いはある。
不安神経症は自分がおかしな行動を起こしているとき、
自分が「おかしい」ということに気付いてる。
だから、自分から病院に行く。
でも、うつ病は自分がおかしな行動を起こしているとき
自分が「おかしい」ということに気付いていない。
だから、周囲が気付いてはじめて病院へ連れていく。
 
なんだかよくわからなくなってきたね。
要は心の病は、そう、たてよこに簡単にわりきれない病気なのだ。
だから、一括して「精神病患者」は怖いと言われるのだろうが。
そんな病気になるにはどんな原因があるんだ?
 
そうそう、これから話すのはゆりこママの場合の原因。
原因も人それぞれ何が嫌なものかなんて他人には計り知れず、多種多様なので、
ゆりこママの場合だけの話にとどめることにする。
 
前置きを書いたのは、まずは心の病は誰にでもちょっとした隙になる可能性があるものだと
いうこと、それとゆりこママが実際どんな症状で苦しんできたか、または苦しんでいるかを
知ってほしかったから。
 
発症の直接の原因
 
これがまた長くなる。
直接の発端は、失恋。
根っこの問題は、もたれあい親子関係。こっちはあとまわしにして、直接の発端を話そう。
ゆりこママは1997年の春、結婚するはずだった彼氏に捨てられた。
それも多額のお金を貢いだまんま。
二人の将来のために買う車の代金が足りないから工面してほしいといわれたわけ。
彼氏からは「僕は結婚を前提にしないで恋愛はできない」といわれてた。
今思えば、そんなばかな恋愛なぞできるわけないじゃん、ということなんだが、
当時、うぶだったゆりこママは信じてしまった。
だから、別れて逃げられたとき、ストーカーのように追いかけて、待ち伏せして、
結婚詐欺〜、うそつき〜、どうして私じゃだめなのよ〜、金かえせ〜、と、しつこく迫った。
彼氏の職場に何度も電話をかけたりもした。
そうこうしているうちに、彼氏も血をはいたりして、私はストーカーをやめざるをえなかった。
でも、半同棲していた一人住まいのワンルームはものすごくさみしく、彼氏からの電話もなく、
私の行動は次第におかしくなりはじめた。指先をカッターで切り、テキーラとワインのボトルを
一気飲みした日は、小さく丸まって泣きながら笑っていた。地下鉄に飛び込もうとして、
へたりこんだときは怖かった。
自分でも「おかしい」とは思ったのだが、そういう行為が止められない。
職場では手先が震え始め、眼が見えなくなってきて仕事にならない。
というのも、彼氏とは失恋直前まで、仕事のパートナーだったから、こころがつらすぎて
仕事できなくなってしまったわけ。
 
これは困ったと、「いのちの電話」に電話したが、なんど電話しても通じなかった。
困った私は、とある親しくして頂いていたおばさんに電話した。
そしたら、おばさんは、そういう妙な行為をしそうになったらすぐに電話しなさいと
言ってくれた。私は甘えて何度も電話し、あるときはおばさんの自宅に飛び込んだ。
ここまで話してなんで家族がでてこないのだろうか?なんで家族を頼らないのだろうか?
と思ったあなたは、するどい。
 
実を言うと、私と彼氏の恋愛は家族の猛反対を受けていた。
表の理由は、年下で島国育ちだからとか、占いで凶と出た相手だからとか・・・。
特に母。
 
当時、ゆりこママは、母と二人で実家に住んでいたのだが、
この母、「もうそろそろ一人暮ししたい」と言った娘に対して
「何を言っているのよ、ずっといっしょに暮らしましょう」とひきとめた。え?いつまでも?
で、彼氏の協力をえて、一人暮しに踏み切るときも母は変なことをした。
「あんたなんて勘当よ〜」と叫びながら、私の足にしがみついて離れなかった。
もちろん振りきった。母、胸の骨折ったそうな。申し訳なし。
 
又、見合い話をさんざん断って自分で結婚相手をみつける、とゆりこママが宣言すると
「あなたがもっと頭を低くすればいいことでしょうが。ああ、育て間違えたかしら」と娘を侮辱した。
何を言う。男性と肩ならべて仕事して独りでも生きていけるようにと育てたのは
誰なんだ〜。そういう娘が宣言どおり彼氏を見つけてきたのになんで認めてくれないのよ〜。
 
母は彼氏に私と離れるようにと命令し、彼氏のご両親にまで電話して、彼等を侮辱した上で
交際をやめさせるようにと、迫った。
おかげで、彼氏の母上、倒れて病院にかつぎこまれた。
このことが彼氏をいちばん傷つけて、別れを切り出されたといってもいい。
まあ、母の暴言、言ったらきりないからここでやめておくが、
こうした経緯があって、私は母とは絶縁状態にあった。
 
また、彼氏のことで母ともめて小さな家出をしたとき、
母とも親しかったさきほどのおばさんのところに身を寄せたので、
そのおばさんに失恋のとき、また助けてもらったわけだ。
 
でも、おばさんが勧めたカイロププラクテイクス(つまり整体)に通っても全く
前章で述べた身体症状は消えず、整体の先生がつい「私がなおして見せます」と
言ってたもんだから、猛烈に怒ったゆりこママは、「あなたに治せないならせめて
治せる人を紹介してよ!」と叫んだのでした。そこで紹介されたのが、
今も通う神経科のクリニック。
裏の話では、事の重大さを知った精神科医のわが妹が
そこに行くように手をまわしたそうなんだが、
当時の私の知るよしもなく、おばさんに連れられてその神経科クリニックの扉をたたいた。
 
でも、ときすでに遅し。
失恋直後の妹の結婚式には、傷心のあまり、親族として出席できず、遠めで花嫁姿をみただけ。
そのとき、母の姿はみえなかった。ブラックホールのようにそこだけ真っ黒に塗りつぶされ、
みえなかった。心はみたくないものはみえないようにするらしい。
顔の皮膚もただれて人目に見られたくなかったのも欠席理由のひとつだ。
足はひきずるようにして歩き、左半身は麻痺していた。
せめてもと思って、フルーツケーキを焼いてベランダに咲く花をちりばめてコーヒーポットをあわせて
送り届け、結婚式を遠めにみたあと、独りで小さなレストランでフルコースの料理を食べて
妹の門出を祝った。
妹もさんざん結婚を反対されたようだが、成功した。
その一方で私はだめだった。
このショックもまたはかりしれず、独り暮しの寂しさはどんどん増すばかりで、
クリニックに行っても待合室で倒れこんで、安定剤の注射を打たれることしばしばの状態。
あんなに一人暮ししたいと言っていたのにどうして失恋したあとも一人で暮らせないの?
もう、仕事に行くのも心身ともに限界にきていた。
遂に私からクリニックの先生に言った。
 
「入院させてください。もう身体が限界です。」
 
「わかっているのかい、入院するってどういうことか?」
(つまり、精神病院に入るとあとからレッテル貼られる十字架を背負うよといいたかったらしい)
 
「わかっています。でももうそれしか心と身体を休める方法がないのです。」
(その十字架、全然わかってなかった)
 
「わかった。では入院先、見つけ次第連絡するからな。」
 
というわけで、ゆりこママは入院することになった。
そこで明かされる「根っこの問題」は信じがたいものだった。
 
入院先の初診の日
 
クリニックから連絡があって、その病院に出かけた日は台風だった。6月だというのに
なんでこんな台風がくるんだと思ったことを覚えている。
海岸通りに波がざぶんとふりかかってくる中、タクシーでその海岸に面した、
晴れていたら風光明媚なはずのおんぼろ病院に着いた。
待っていたのは、30代初めのめがねをかけたまじめそうな先生。
ずぶぬれになって入ってきて一息ついた私に向かってその先生は言った。
 
「大変でしたでしょう。さてと、入院したいそうですが、
担当は私でよろしいでしょうか?」
 
「はあ??」
 
手を組んで私をじっとみる先生。
 
「そりゃねえ、担当替えられるわけじゃないでしょう?」
 
「替えたければ替えて結構ですよ。」
 
「はじめての病院です。何もいいもわるいもしりません。
お任せするしかないのですが。。。」
 
「そうですね。じゃあ、よろしくお願いします。」
 
「ええ、こちらこそ。」
 
なんか変な会話。
でも、きっとそれで私の尋常さを測っていたのではないかと今は思う。
先生は病院にもちこんでいいものとだめなもののリストを渡してくれた。
じーっとそのリストを見てからゆりこママは尋ねた。
 
「あのう、大事にしているぬいぐるみとハーブの植木鉢を持ってきてもいいですか?」
 
本当はアロマテラピーのグッズもいいかと尋ねたかったが、薬品類の持ちこみ禁止と
なっていたので、聞かなかった。
 
「あ〜、ぬいぐるみや植木鉢のひとつぐらいはいいですよ。どうぞどうぞ。」
 
先生は知らない。ぬいぐるみがどんなものなのかを。まさか1mのくまさんを持ってくるとは
思わないだろう。高さ30cmのワイルドストロベリーの植木鉢を持ちこむことも。
そして、黙って、アロマテラピーの精油を持ちこむことも。
初診の帰り、先生にもうひとつ尋ねた。
 
「あのう、病棟みてきてもいいですか?」
 
「え〜、いいですよ。これからあなたが入るところですからね。」
 
そういって、先生は立ち去った。
ゆりこママは長いおんぼろの通路を歩いて行って緑が生い茂る小道を台風に吹き飛ばされないよう
歩いて、病棟までたどりついた。
でも、中に入れなかった。まだそこの住人じゃあないもの。
中庭があった。そこにワイルドストロベリーの鉢を置こう。
そう決めて、その日は一人暮しの部屋に戻った。
それからは忙しかった。荷物をまとめ、会社に休職願いを出して、ベランダで大切にしていた
ハーブたちを友人に預けにいき。。。なんかちょっとだけほっとした。
さみしい部屋から離れられるし、きっと入院生活はのんびりしたものにちがいないと思っていたから。
でも、自分のこころとの闘いはこの入院からがはじまりだった。
 

入院生活のスタート

入院する形には二つある。
ひとつは強制入院。ずばり本人の意思確認なしで家族の同意だけで入院させられる。
アルコール症でぐでんぐでんで発見された人とか自殺を試みた人とか
発狂して手をつけられない状態の人などがこれに該当する。
もうひとつは任意入院。つまり、本人の意思確認なしには入院できない。
ゆりこママはむろん後者。自分で入院するって言ったもん。だから自分で同意書のサインをした。
しかし、困ったことにもうひとつ署名を求められた。
それは入院費用の支払い保証人の欄だった。
ゆりこママは妹に電話した。しかし、ひねくれものの妹、即座に入院の保証人になってくれない。
「なんで私がならなきゃいけないのよ〜」だって。
人生のどん底にいるときでも、保証人が必要なのか〜。金ならいくらでもあるのに。泣いた。
あとからわかったことだが、妹は母に説得されて保証人になってくれた。
それも、妹が大学に通うための育英資金の保証人にゆりこママがなっていたお礼だと
思ってやるべし、と言われてはじめて応じたそうな。
精神科医である妹、病院の受付にいますぐこちらにこれないがあとではんこ押すから
入院を認めてほしい、と権力をかさにふるったらしい。
精神科医に言われたのだから、病院も安心して私をようやく受け入れてくれた。
 
荷物はみかん箱二個と鉢植えがすでに病棟に届いていた。
箱からよいしょととりだしたるものは1mの茶色のくまのぬいぐるみ。
袋から取り出したのは高さ30cmのワイルドストロベリーの鉢。
私の部屋は6人部屋。
そのとき部屋には誰も居なかったが、先生と看護士さんがやってきた。
先生は面食らった。
一呼吸おいてから、「ずいぶん大きなぬいぐるみですねえ」と笑いながら言った。
ワイルドストロベリーの鉢は案の定、室内には置かないでくださいといわれたので
早速日がさんさんと照りつける中庭に置いてあげた。
 
私の入ったところは、真っ白な壁に柵のない窓、部屋のドアは開けっぱなし。
いわゆる開放病棟といわれるもの。
唯一、鍵のかかった真っ白な4畳の部屋がある。保護室という。
そこは、精神錯乱した人が安定するまで入るところ。
自殺や自傷行為から保護するためにあるから保護室。
中には外から丸見えの白い和式の便器がひとつとせんべいぶとんがあるだけで、
あとは白い壁と、小さな柵がついた小窓だけ。
一度、錯乱した人が入っているのを覗きこんでみて、考えた。
私も一度入ってみたい。
それを医者と看護士にいったら冗談いわないの!と怒られた。
でも、世間から離れて、自分自身をとことんみつめるにはとっても静かでいいところにみえたのだ。
便器が丸見え以外は。
一方、開放病棟とは別に、柵と幾つもの鍵のついたドアがある病棟もある。
それは閉鎖病棟というもので、中は経験していないから知る由もない。
たぶんなかなか外出できないところなのだと思う。
それに比べて、開放病棟の患者の外出は院内(つまり病院の敷地内であればいい)のみか、
病状安定後は本当の外出が許された。もっとも、外出時間は朝9時から夕4時まで。
それ以外は病室にいなければならなかった。でも、一番近いコンビニエンスストアまで
歩いて20分、ドラッグストアまでは30分、近所の大きな公園まで15分、駅、銀行にいたっては
バスに乗って30分という、ど田舎。よほど、目の前に広大にひろがる海と病院の広い敷地
にあるいくつかの小山や丘と草花の畑や作物の畑を楽しんだ方がいい。
日中は先生に会う以外は何をしてもOKだったので、ゆりこママはめいっぱい自然を楽しんだ。
外出は健康も兼ねてコンビニエンスストアまで買物と称して行き帰り40分を猛暑の中
歩いた。海岸線を行き帰り1時間も歩いた。
もちろん、左半身麻痺がとれて病状が安定してからのことだ。
夕食は夕5時病棟全員で食べる。ちと早いような気もするが仕方ない。
外部者との面会時間も朝9時から夕4時まで、面接室で会える。
洗濯物は自分で手洗いし、中庭のつりざおにひっかけて干す。
雨の日はもちろん、病室内でハンガーにかけて干す。
時期が夏だったからよかったけれど、冬場は大変だろうなあ。
朝は6時に起床し、体温を測ったら、病室から出て、
それぞれに指定された薬を飲みに薬配布の看護士さんからもらいに行く。
はじめの頃は、左半身が麻痺していたこともあって、
たった5mのこの薬配布までの距離が異常に長く感じて、途中でなんども倒れこんで泣いた。
でも、誰も助けない。声援はするけど。
お風呂は週に3日。
消灯は夜9時。でも寝られない人のためにテレビは10時までつけておいてくれた。
真っ暗闇の中でゴールデンタイムに当時流行ったドラマを沢山みた。看護婦さんも
一緒に楽しんでいた。
10時になっても眠れないときは看護室にいって睡眠薬をもらうこともあった。
それでも眠れず興奮して見まわりの看護士さんにわーわー泣きついたこともあったし、
アロマセラピーのラベンダーの精油をティッシュにしみこませて枕元におき、1mのくまちゃん
を必死に抱きしめて歯をくいしばって目をつぶった。
私にとって、くまちゃんはさみしさの象徴だったのだ。くまちゃんが大きいのはそれだけ
さみしさも大きいという証拠。
だから、今は部屋の隅に放置されている。それでも捨てられないんだなあ。
入院生活も安定しはじめると、私はACODA(意味後述)という外部の自助グループ参加のために
一日外泊を許されたが、
そのときも真っ黒なゴミ袋にくまちゃんをまるめて入れて持ち歩いていた。
それだけ、くまちゃんは私にとって大事なものだった。
病院では、行事はさしてなかったが、私が入院していたときは、
夏祭りがあって、病院の先生も患者もみんなで太鼓のまわりで踊った。
あとは日中、みんなの気晴らしにカラオケ大会やバレーボール大会を病棟のみんなでやった。
 
看護士さんには当時2人男性がいた。
やはり、興味があった。どうして、看護士になりたかったの?女の世界じゃない。
そしたら意外な回答があった。ある飛行機事故の映画をみたんだって。
そしたら、そこではりきって活躍していた人は男性の看護士で中学生だった現看護士にとっては
とてもかっこよくみえたんだそうな。ちなみにその看護士は毎朝、出勤はバイク。
気に食わないことがあると、大声でバイクをがんがんとばしながらばかやろ〜って叫ぶのだそうな。
さぞかしすっきりするだろうなと一瞬バイクに乗りたいと思ったゆりこママだった。
一方、看護士さんには御歳52歳で、まだ看護士3年目というたまげたえらい方がいた。
小柄で髪をきゅっとまるめた50代とは思えないかわいい笑顔のおばさまは、娘が大学生になった
のを機に意を決して、看護士の勉強をしたのだそうだ。数学IだのII、わからなくて挫折しそうに
なったと。でも、老後何もせずにぼーっと御気楽に暮らしたくないと思ったんだそうな。
体力のこと考えると、えらいとしかいいようがない。
尚、その看護士さん、たびたび、私に、娘の就職相談をもちかけてきて困った。
「今朝もけんかして出てきたのよ〜」といいながら、自分のはいってもらいたい会社の理想像を
述べる姿は仕事の姿でなくはっきりいって母の姿。
なんか患者と看護婦の立場逆転でまずいんじゃないかなあ、と思いつつも
仕事を長年してきた私の仕事観を述べたよ。
 
と、入院生活はこんな感じであった。
結構、安らかなときを過ごせる場所だった。
唯一、安らがないときは面接の後だった。
私の場合、先生は一日に1回面接しにやってきた。
いつくるのかはその日その日ちがったが必ず1回。
面接といってもただの面接ではないのはいうまでもない。
精神科医の面接とはつまり精神療法のこと、または、
心理療法士(カウンセラー)のやるカウンセリングとほぼ同じである。
それと同時進行で自助グループの参加を義務付けられた。
次にその治療で明らかになっていくきつ〜い問題の根源を述べよう。
 
入院治療〜自分と向き合って〜
 
一日1回の面接を通してわかったこと。
それは私が母ともたれあいの関係にあったこと。
そして、その根源は実家の家庭環境にあったということ。
では過去からさかのぼってみよう。
 
ゆりこママは幼い頃から甘えることが許されない家庭に育った。
母は、喘息の妹の世話で忙しい一方、
幼稚園のお受験に失敗した私に「私がいないと何をやってもだめだから」と言い、
成績ばかりを気にしてた。
ゆりこママは甘えたかった。でも、母はその気持ちに気づかず、父にも甘えようにも甘えられなかった。
アルコール依存症だったから。
飲酒すると説教と母とののしりあい。それがしらふになると父はうそのようにやさしくなり、
母も何事もなかったかのように明るく振舞う。
ある医師から「これは家族病です」と告げられ、
アラノンにも娘2人が行ったけれど私達には幼すぎて団体の活動内容がわからず。
父の病はを重ねるにつれてひどくなった。
時折、泣いてばかりいる母と、喘息、嘔吐、反抗を繰り返す妹がみつめる前で
ゆりこママは父を押さえつけて叩いた。叩きながら心中「大好きな分だけ死んでしまえ」と叫んでいた。
今思えば、ゆりこママは両親に甘えたい一身で何でも一流を求める母の理想像にあてはまろうと
必死に背伸びし「いい子」になり、酔う父に対して何もできない母の変わりに妻と母の二役を
演じていたわけ。
父は結局、再飲酒し、肝硬変で死亡。
父は、死の半年前に「家族の中で頼りになるのはお前だけだ。私に何かあったら家族を頼む」と
ゆりこママに言った。
だから、臨終に際し、子供のように泣きくずれる母と浪人生でぐれる妹をみて、ゆりこママは泣けなかった。
本当の「私」は泣きたかったし誰かに甘えたかった。
一方、かつて、死んでしまえ、と父に心の中で言ったことで自分が殺したかのようにも感じていた。
そんな喪失感と自責の念で一杯で動揺していたのに、ゆりこママに甘える余裕は、
その後、妹が大学に入るまでなかった。
本当の自分を抑えて、反抗する妹におろおろする母にかわって説教する親の役目を担った。
妹がようやく地方の大学に入り実家を出ると、社会人になっていたゆりこママは、
時折、会社の愚痴を母にこぼすようになった。
やっと甘えられる時がきたと思って本当の自分をのぞかせたわけ。
でも、母は「上司の気持ちがわかる」と言い、甘えを許さなかった。
そのうち、母は私に見合い話を持ってきた。
断るたびに「あなたがいけない」と怒る母にきれたゆりこママは
「結婚相手ぐらい自分でみつけるわよ」と叫んだ。
すると、母は「育て間違えたかしら」と言い、自分の意のままにならないことを嘆いた。
ゆりこママの心は傷つき、幼い頃からあった「なぜありのままの私をみてくれないの?」という
甘えたい想いを募らせた。
そんな険悪な家庭事情の中、ゆりこママはは先にも書いた彼氏に出会い、結婚を考えた。
しかし、また自分の理想像にあてはまらない彼氏をとことん拒否する母に嫌気がさしたゆりこママは、
家出同然に一人暮しに踏み切った。
母は出て行くゆりこママに「勘当よ」といいながら、足元にすがりつき「出ていかないで」と言った。
 
運命は皮肉。ゆりこママはこれで経済的にも物理的にも自立できたと思っていたのだが、
心は自立していなかった。甘える子供のままだった。
私は両親に甘えられなかった分だけ、恋人に親代わりを求めてしまった。
彼氏は、精神的に親から離れられずにいる子供のような私をわかってつきあってくれた愛情深い人
だった。金銭面は別として。でも、その頃から原因不明の半身麻痺がはじまったゆりこママだった。
また、所詮、彼氏には親代わりはできない。
ましてや、彼と彼の両親を繰り返し愚弄し、彼の母を心労で倒れるまで追い詰めた執拗なゆりこママの母
に、彼氏はもう限界に達していた。
突然、彼氏に別れを切り出され、甘える対象を失ったゆりこママは、孤独にさいなまれて、
半身麻痺になりながらも彼氏を追いかけ、そんな自分が嫌になり、死をも考えた。
今思えば、彼氏と別れた時のゆりこママの態度は父の死の時の再現でした。
またしても本来の「自分」は甘えたかったのに、「いい子」の自分が「甘えてはいけない」と
その本来の「自分」に命じてしまったのだ。
ただ違ったのは、恋愛を通して本来の「自分」が目覚めはじめ、「いい子」の自分をつきやぶって、
幼い頃からの望みを訴え始めたことだった。
「甘えたいのにもう誰にも甘えられない、ひとりぼっちだ、甘えられないぐらいなら死んだほうがまし!」
そして、この恋愛で彼氏も彼の親も病に倒れたことから、
「私に近づくと血をみる。もう人をまともに愛せない」と思ってしまった。
父の死のときと同じように喪失感と自責の念にかられたのだ。
このような状態では、自分の首を自分で締めているようなもの。きちがいにならない方がおかしい。
幸い、私は死にたい分だけ死にたくない気持ちが強かったので、
必死に先に述べたおばさんに電話して助けを求めたのだ。
その結果、精神科とつながり、心身疲れきった私は自殺から身を守るために
自分から望んで入院した。
そこで、彼との別れを母のせいだとばかりに母を恨んでいたゆりこママは担当医に手渡された、
クラウデイア・ブラック著「私は親のようにはならない」という本を読んでショックを受けた。
その本には米国のアルコール依存症の家庭に育った子供達の人格形成について書かれてあったのに、
日本人である私にあてはまる部分がいくつもあったから。
その本をきっかけに、次のような、ゆりこママは担当医とのやりとりで
やっと本来の「自分」が甘えたくて仕方ないことに気づいたのだった。
 
ゆりこママ 「なぜ母をここに呼んで私の苦しみをどうして彼女にわからせないのですか」
 
先生「先程からお母さんのことばかり言いますね、なぜそんなにお母さんに来てもらいたいのですか、
   わからせたいのですか。なぜ大嫌いなのにお母さんにこだわるのですか。」
 
ゆりこママ 「私は悪いことしてない。結婚しようと言っていたのになぜ別れるなんて言われるの。」
 
先生「あなたは先程から彼のことを非難していますね。結婚するつもりだったなら、なぜ駆け落ちでも
   しなかったのですか。あなたにもその勇気がなかったとは言えませんか。」
 
ゆりこママはなんと親と同じことをしていたのだった。
母が私にもたれかかり期待しているのと同様に私も母にもたれかかり期待していた。
いわゆる「共依存」。そして、父がそんなもたれかかる母から逃げるようにして
アルコールに溺れていったようにゆりこママは母から逃れるように恋人にもたれかかり期待するようになって
いたわけ。でも、どうしても、母のもたれあいから逃れられなかったためと、自分は背負わないと
いけないほど重い人間だよ、ということを表わすために、半身麻痺になったわけだった。
 
そのことに気づいたときはショックで、あらためて死にたいと思った。
30年もそのように育ってきたから。何年かけたら人の愛し方、接し方を学びなおせるというのだ?
死ぬまで子供のままなのか。はずかしくて生きていられない。
でも、ほかの患者さんが「私の心にも依存はあるよ。きっと変われる。自分を信じて生きて」と言って
泣いてくれた。精神療法とカウンセリングを続け、アダルトチャイルド(意味後述)の自助グループに通ううち、
どうして、ゆりこママがそのような人間になったのか知った。
私は両親に甘えたかったけれど、アルコール症の父と学歴偏重かつ共依存の母には
甘えたくても甘えられなかった。
それどころか、甘えたい一身と”見捨てられまい”という思いの一身で、
自己犠牲してまで愛想をふりまき、両親を自分に甘えさせていたのだ。
この甘え不足と過剰の甘えさせの結果、ゆりこママは「いい子」を演じるくせがつき、その反動として、
他人にはけ口を求めるように甘えてしまうようになったのあった。
そして甘えられないとわかるとぐっとこらえてまた「いい子」に戻ろうとする。
 
ゆりこママは両親から「あなたはそのままで存在し愛される価値のある人間なんだよ」という
メッセージを受け取ることができず育ってしまっていた。
 
決して両親に愛情がなかったわけではなく、愛情の示し方が下手くそだった。
恨んでも仕方ないこと。
「親のようになるまい」という入院当初の想いは、
実は、「親に愛されたい、甘えたい」という愛情の裏返しだった。
 
こうして過去を振り返ることで、心因反応の心理的理由がわかった。
いろんな理由があって、親にもたれかかるような性格になって、
せっかく親からひきはがしてくれた彼氏にもたれかかりすぎて捨てられて、
誰にももたれかかることができず、山ほどの甘えをかかえて、さみしさのあまりに、
心因反応をひきおこした。
面接は医師を鏡として深く深く自分を掘り下げてみつめる作業だったため、
面接のつど、泣いた。つらかったが、やっと本物の「自分」に出会った気持ちは
うれしかった。

入院中の友達

さて、重い話で疲れただろう。
入院中の友達の話をしようと思う。
 
★アルコール症の女達★
 
6人部屋の中には二人アルコール症患者がいた。
ひとりは20代の3代にわたるアルコール症患者の家系の独身女性。
もう一人は40代の子供と離れて暮らす離婚女性。
二人ともいつもなにかとチャンスをうかがっていては飲酒しようと
思っていた。ある日、男性アルコール症患者と病棟から逃げ出して
缶チューハイをたくさん飲んで、エッチして意識を失った。
(アルコール症患者はアルコールをちょっとだけ飲むだけで意識が朦朧としてくる一方
激しくエッチをしたくなる傾向がある。)
40代のおばさんの方はその若い女性にそそのかされたということで
たいしたおとがめは受けなかった。しかし、主犯の20代の女性は
わるびれずこともなく、「私は3代続いてアルコール症の家系なんだから
ここでの治療なんて無駄なのよ。出て行く。」と言って、医者が止めるのも聞かず、
おしおきの白い4畳の部屋に入っても、「出る」の一点張りで、ついに出ていってしまった。
共謀の男性アルコール症患者も強制退院させられていた。
出て行くとき、彼女は言った「二人でなぐさめあって生きていくんだ。治療なんて無駄だもん。あばよ。」
残された、乗せられた40代の女性はそれからしばらくのあいだ、エッチしたい気分が晴れず、
大量のエッチ漫画をし入れて読んでいた。ゆりこママもおこぼれをいただきましたよ。
40代のおばさんは一生懸命育てた2人の愛娘がいるそうなのだが、
キッチンドリンカーになって旦那様に包丁を向けるようになった時点で、
離婚を言い渡され、親権を放棄させられたそうだ。毎晩、眠れないでいる私に
娘が1年前にくれたたった1通の手紙をなんども読み聞かせ、どう返事を書こうか、
誕生日なのよ、といって、手紙の代行を求めてきた。さみしい人だった。
でも、その後、この人も退院したあとも交流は続き、いまは新しい彼氏ができて断酒を
続けている。いつか胸はって娘に、おかあさんはちゃんと生きているよと言えるようになる
ことを目標にして。
★自分をフィロソフィアと呼ぶ老女★
 
精神病院にはどこでもそこの主といわれるような、
長年家族の引き取り手がなくて病院を居住まいにしている人がいる。
ここで話すフィロソフィアもそう。
年齢は60代で、ごましおの髪をたばねて、
いつもロングスカートに毛糸で編んだ派手な色のチョッキを着ていた。
時々、口紅もさした。
話によるともう30年はこの狭い病棟の一室に住んでいる。
折り紙が上手で、千羽づるをつくるのはもちろん、水仙の花をつくって花鞠をつくっていた。
このフィロソフィア、本当は実名があるはずなのだが、どうしても実名で呼んでも耳も貸さない。
自分は哲学の世界に生きている高貴で知的なな女性であるので、フィロソフィアと呼んで
丁重に扱えという。
だから、看護士も他の患者もみな、フィロソフィアと呼んでいる。
もう彼女は自分の世界ができあがっていて、それから一歩も出ないのだ。
危害を加えるわけでもなく、発狂するわけでもなく、ねたきりになるわけでもなく、
なんの病なのかは知らないが、これからも、そして、命つきるまで彼女はこの病棟を哲学の世界だと
思って過ごすのだろう。
しあわせなのだろうか。それは誰にもわからない。
★K子ちゃんの想い出★
 
病棟の中にはK子ちゃんという重度の依存症の女の子がいた。
見た目はとてもひとなつこくて、おまつりの太鼓も率先してたたいてはしゃぐ24才
だった。しきりに年齢を気にして、25才になっちゃったら恋人ができないと言っていた。
そのK子ちゃん、なぜかゆりこママが気に入ったのか、よくくっついてまわってきた。
別段、忙しいわけでもないので、いっしょに遊んでくれることはうれしかった。
ある日、中庭に置いてある、ゆりこママの持ってきたワイルドストロベリーをみて
「これな〜に」と聞いた。赤い実ができていたので、食べさせた。
「あ!いちごだあ」といってK子ちゃんは笑った。
私は担当の医師に依頼されていたこともあって、K子ちゃんにワイルドストロベリーの
水遣りの世話をお願いすることにした。
入院1ヶ月もなると、ゆりこママは外泊訓練が多かったためもあって助かった。
K子ちゃんは、「私にできるかなあ」といいながら時々忘れながらも一生懸命水遣りしてくれた。
彼女には、愛情を欲しがるばかりで愛情を注ぐということが苦手な病だったのである。
だから、気に入ってくれた植物に手をかけるというのはいい治療だったわけ。
その一方、K子ちゃんは、ゆりこママが不安発作で発狂して泣いているとき、
すっと、鉛筆書きの、ひょうたんとにこにこしたゆりこママの笑顔の絵をさしだして、
「自分のいちばん大事にしているひょうたんをあげるよ。だから泣かないで。
私の中にも依存はあるよ」
と言ってくれた。彼女は自分の病を知っていた。
ときには、ゆりこママの不安発作が止まらないときは、
「大声でさけぶところ知っているよ。」といって、
病院の裏庭の丘に連れて行き、いっしょに
担当医師の名前を叫んで「ばかやろ〜」といったこともあった。
そんな心が太陽のように明るい子だったが、夜はいつも眠れず、
看護室にもっと睡眠薬をくれるようにと頼んでいた。
その後、ゆりこママが退院し、K子ちゃんも退院したと聞いて、
手紙のやりとりをたくさんした。
しかし、それも、1999年で途絶えた。
K子ちゃんは26才を迎えたとき、命をたったのだ。
しきりに25才を超えたら恋人ができなくて結婚できなくなる〜と嘆いていたK子ちゃんの
言葉がよみがえる。
K子ちゃんが亡くなったあとのK子ちゃんの母から長い手紙をもらった。
その中で「ひたすら愛してあげればよかった。他は何ものぞまなければよかった」
という文面がいまも脳裏に浮ぶ。
なにかと子供に自分ができなかったことを期待してしまう大人、ひたすら愛するって難しい。
その後もK子ちゃんの母とは文通している。
 
★5重苦のお嫁さん★
 
6人部屋には結婚して3年目になる20代のお嫁さんがいた。
彼女の病名は複雑で、摂食障害(拒食、過食)、アルコール症、軽度の精神病、自傷行為、対人依存症が
混ざったものだった。
やせっぼっちで、生理はとまり、食べるものも点滴栄養のみで、看護士に隠れて
しょうゆとシュガーカットをまぜて飲んでは、それを「おいしいから飲んで見たら?」と勧める人だった。
ときに外出禁止の彼女に「どうしても」と懇願されて、
ゆりこママが仕方なくシュガーカットを3本売店に走って買ってくることもあった。
売店のおばさんは彼女のことをよく知っていて「そんなにシュガーカット買ってどうすんだい?」と
にらまれたけれど、「数人の人に頼まれて・・・」と言い訳して逃げた。
彼女はおいしそうにその液体を飲むと、トイレに走っていって、口に手をつっこんで吐いていた。
彼女は父母に幼児虐待を受けていて、いつも「あんたなんかいなければよかった」と言われ、
結婚するときも「いなくなってせいせいした」と言われたそうだ。
その結婚相手にも「子供なんていらない。子供はおまえ一人だけで十分だ。なんでこんなに大変な思いを
しなければいけないんだ」と壁をつくられていた。
そのため、母やご主人に甘えられず、それを病気になることではけ口を求め、爆発させていた。
そういう冷たい家族だったため、うわっつらだけの家族面接のあとは、特にひどく、
雑誌とトイレットペーパーをちぎって部屋中にばらまき、どこで手に入れたのか、かみそりで腕を切って、
血を流して静かに寝ていることもあった。
一種の夢遊病で、眠っている最中に、こうした行為をしてしまうのだ。
彼女は包帯をまかれて、これ以上、危険行為をおこなわないようにと、おしおきの4畳部屋にうつされた。
だから、白い壁に囲まれたおしおきの4畳部屋で目をさました本人はそうした危険行為に
全く覚えがないものだからなぜ自分がそこにいるのかおどろいてしまった。
そんな彼女に私は問われるままに一生懸命彼女の病気の根源をわかりやすく教えた。
結果、彼女は、はちまきをして、友達が応援してくれるから、家族がいなくてもひとりぼっちじゃないことが
わかったから、絶対生きてやる〜と言って、食べられない食事を一生懸命食べて、吐かないように
がんばったこともあった。おかげで毎日3回やっていた点滴による食事もなくなった。
ご主人から冷たい内容の手紙をもらっったり、お母さんに「私の何がわるいのよ」と言われたりして、
くじけることも多々あったが、徐々に彼女は自分の病気とつきあうことを学んでいった。
彼女の場合、完治の見こみはなかったので、つきあうようにしたらいい、とゆりこママがいったからだ。
また、拒食症から立ち直ってカウンセラーになって働いていた病院の女性も
彼女の回復にとってはいい目標であった。
そうこうして、手紙のやりとりしているうちに、彼女も退院したが、
やはり、ご主人の後ろ向きの壁は堅く、
受け入れられない苦しみでアルコールを飲みながら、ゆりこママに電話してきて、途中、
トイレで居眠りし、受話器をおとすこともあった。
今は、彼女は生理ももとにもどり、しょうゆとシュガーカットの飲み物をまずいと言い、
アロマテラピーの趣味や小動物を育てることに関心をもつようになった。
でも、今度は、ご主人が子供がえりしてしまい、念願の子供つくれないという事態になってしまった。
ああ、彼女の病気はご主人の分も背負っていたのね、と思った。
これからも大変だろうと思うが、自分を見失わなくなった彼女は人の手を借りながら、
ご主人とともに病につきあっていく術を得ているとゆりこママは思っている。

★よく眠る女★

6人部屋には、一日中、よく眠る。ごはんのたんびにたたきおこし、何も語らない30代の女性がいた。
本当におかしかったので、よく、「眠り姫殿、起きる時間ですよ!」といって
たたきおこす役目をゆりこママがやってあげたが、
退院まで彼女の苦しみを聞くことはなかった。
しかし、退院後、ある日突然電話があり、唯一話せる人だからといわれ、彼女の苦しみを打ち明けられた。
10代で麻薬をやり、幻覚をみるようになり、仕事を転々としながら、20代でセックスにおぼれた結果、
ずっとつきあっていた男に捨てられ(というか、その男性は麻薬の件で刑務所に入ってしまったのだが)、
眠れない日々が続き、ついに寝るために入院となった。
そしたら、本当に、何も医師に打ち明けることもなく、眠り姫になりつづけた。
そして退院して、自分の経歴を話せそうな医師に出会ったのだが、あまりに男性恐怖症になって
いるため、私にまずどうやって打ち明けたらいいだろうかと、突然電話してきた次第である。
「なぜ私には打ち明けるの?」聞いたら、「いつも入院中、やさしくしてくれたことが忘れられなかったから」と言う。
眠っていながらも私がたたき起こしていたことは知っていたらしい。
私は「じゃあ、その先生に手紙で告白してみたら?」といった。
そしたら、上手くいった。
話せないことを日記帳のように幻覚のことも含めて書いて
そのまとまったものを医師に渡したらわかってくれたとのこと。
よかった。
今、彼女は自分の経歴をすべて打ち明けられるご主人と結婚して幸せに暮らしている。
もちろん、彼女も先の5重苦のお嫁さんと同じように、病につきあっていかないといけないという
あきらめがある。
でも、諦めとは、ものごとが明らかになることも意味する。
全てが明らかになった今、彼女は悶々とすることはない分楽である。
★ACODAの仲間★
 
これは端的にいうと子供時期を機能不全家族に育ったがゆえに苦しみを背負う成人の自助グループ。
Adult Children of Disfunctional Families Anonymos=ACODA
そうした成人のことをadult children=AC、つまり、アダルトチャイルドと呼ぶ。
なんのことかわからないだろうが、つまりは、子供時期に家族の機能が正常に機能しなかったがゆえに
子供の頃を子供らしく生きることができず、大人になってしまった人たちだけの
助け合いの集まりということといえよう。
(ゆりこママなりの解釈なのでまちがいがあれば指摘して欲しい)
このグループで参加する人は、
「機能不全の家庭に育ったことで今の自分が苦しいと感じているのであれば誰でも」参加でき、
ACの問題から回復することが第一の目的である。
集会の基本は”言いっぱなし聞きっぱなし”で、誰も批判することなく、
ひたすら、自分がその日、話したいことを話し、周囲は黙って聞く。
そうすることで、”受け入れられている”や”甘えられる”気持ちを味わうこともあれば、
自分の話した言葉がそのままはねかえってきて自問自答にもなる。
要は現実の家族のかわりに第二の家族の機能となりうるのである。
家族を変えられない事態(既に親が他界している、絶縁しているなど)には有効な治療手段である。
ゆりこママは、入院先の医師に命じられて、当初参加したのだが、
この自助グループにはすぐに慣れた。
参加者の人達がみなやさしく感じるからだ。実際同じような経験者の集まりなのでやさしいのだろうが
先にも述べたように、言いっぱなし聞きっぱなしという原則で集会が進められることがやさしさを
かもしだしているのだろうと思う。
本当ならば、この自助グループで仲良しになった人達のうちあけをしたいところだが、
それはしてはならないことになっているので控える。
だが、このグループの仲間に支えられて、持病について深くほりさげ、かつ、
山ほどの甘えをはきだすことができたのは確かだ。
また、この集会のあとには必ずお茶会があった。
ちかくのファミレスでおしゃべりするのだが、それもまた楽しかった。
はたからみると到底治療とは思えないように見えるが実際は会話のひとつひとつが治療なのであった。
特にゆりこママは生育歴上、世話好きの傾向が強いので、それを和らげるために、
話を聞いて欲しいという人の願いを断る術を学ぶのは大変だった。
尚、グループミーテイングにいかなくなった後も続いた友人関係もある。
それも、本人の承諾を得ていないので、話せない。
だが、友人になって、お互いの自立を守りながら、ときに苦しいときは打ち明けたりしている。
それで何かが解決するわけではないが、わかってくれる人がいるだけでも安心なのである。
 
★手紙の山と訪ねてきてくれた大学時代の友人達★
 
ゆりこママは精神病院に入ることで一切の友人を失うと思っていた。
それぐらいの覚悟で入院した。
しかし、事態は違った。
毎日、途切れることなく、病気を気遣う手紙やはがきが届いた。
泣いた。私はなんて人を信じていなかったのだろうかと。
自分が思っている以上に、人に支えられ、愛されていたのだと気がついた。
ゆりこママは、父の死のとき、母に言われていたことがある。
「葬式といった最悪の一大事のときにかけつけてくれた人は大切にしなさい」
私にとっては、入院は一種の最悪の一大事だったから、いまでも、
そのときに送ってくれた人達の手紙やはがきをとっておいてある。
尚、外出ができるようになった頃からは、近隣にある大きな森林公園に大学時代の友人2名と
ともに遊びに行って、ハーブの石鹸をつくったり、写真をとったりした。
とてもうれしかった。いまでも大事な友人達である。
会社の人もお見舞いに来てくれた。
こちらはなんとなく素直になれなかった。
仕事関係と大学時代の人とでは、利害関係が異なるからだろう。
いずれにせよ、こうしたゆりこママにとっては意外な人達からの励ましやお見舞いは
その後の人とのつきあいを変えたように思える。
 
退院後のから現在に至るまでの格闘
 
ゆりこママは結局2ヶ月で退院した。
退院にいたるまで、面接のほかにも、電車に乗って会社に行く練習もしていた。
はじめは駅のホームでダウンしていたのだが、次は1駅、また次は2駅と伸ばして、会社のすぐそばの
喫茶店まで行って、最後には会社の職場にたどりついた。
 
だから、先生は「あともう1ヶ月いてもいいですよ」と言ってくれたが、
自分でなんとなくもうやって行けそうな気がした。でも、問題はまだあった。
 
それは、先生のこと好きになっちゃった、ということである。
入院中から、毎日のように面接しているのだから、
そんな気になってもおかしくないだろう。ある日、遂に告白した。
しかし、先生ははっきりと断ってきた。
「私はあなたを恋愛の対象としてみれません」と。
ショックだった。
ではせめて、友達になってください、と退院時に手紙を渡した。
つまり、医者と患者は友達にはなれないのか?とたずねた。
先生からは返事はもらえておらず、この問いはいまだもって解決できていない。
感情が入ってしまっては、冷静に精神科の治療はできない。
外科医が身内の手術をまともな気持ちで出来なくなるから受け持たないのが通常というのと同じだ。
また、精神科の病は闘病が長い。
いつまた先生に診てもらうかもしれない。
そのときに恋人でも友人であってはならないのだ。
医者と患者の関係を結んだらその後はずっとその関係のままなのだ。
いつまでも、医師として診てあげたいから。
それと、治療を終えたら医者は忘れてほしくない反面忘れてほしいのだ。
そんな治療もあったかもなと言えるぐらいに忘却の彼方におしやってもらいたいのだ。
そうしないといつになっても、病気にしがみつくことになって、病気からたちなおれない。
ゆりこママは、退院後、先生のことが忘れられず、徹夜して並んで買ったコンサートのチケットを
送ったことがある。2枚入れて。先生への感謝の気持ちのはずだった。
しかし、先生は2枚速達で送り返してきて、
 
「あなたの私への想いは、父親への愛情と同じです。このチケットは大事なものでしょう。
まだ使えるはずです。同封致します。あなたのこれからの回復を心より祈っています。」
 
と言ってきた。
そうなのかもしれない。
先生は、その手紙でもって「僕のことは忘れて、もう前を向いて歩いて行きなさい」と
厳しく、それこそ、父親のように、送り出したのかな、と今は思う。
しかし、今でも会いたい。「元気でやっています。もう子供も大きくなりました」と伝えたい。
やはり、父に向かっていうことなのか?感謝の気持ちのつもりなのだが。
先生はいま転勤になってどこにいったのかもうわからない。
 
私は、この擬似恋愛の件で突発性難聴でひっくりかえってしまった。
又、一生懸命、自分のつらい過去をふりかえって、もとの彼氏に手紙をしたためたというのも
ひっくりかえった原因でもある。
手紙には最後に、
「・・・本当にお互い信じあって別れるならばやはりお金もきちんと清算したいものです。
私はいつまでも貴方の事を信じていますので、これ以上の督促は致しません。
もうお手紙を書くかもどうかもわかりませんのでもう一度繰り返します。
私は本当に心より貴方の事を愛していました。ごめんなさいね。ありがとう。
愛していたからこそこれからの貴方の人生が幸せなものであることを、心より願っています。」
と書いた。どこまでもお人よしなのだろう。貸したお金は大きかったのに。
でも、それから1ヶ月後、クリスマスイブの日、その大金は振り込まれた。
ファックスで「メリークリスマス、長い間お貸しいただき、本当にありがとうございました」と来た。
信じられる人を愛せてよかったと思い、大泣きしたのはいうまでもない。
退院して慣れぬ一人暮しにもどった私は、もとのクリニックのカウンセリングと
ACODAの自助グループの仲間とだけで孤独感と戦っていたのでその心労もあったのだろう。
この病はまったく身体を身動きできなくする。
だが、突発性難聴で倒れてはじめて私は「もうどうにでもなれ」と叫び、闘うのをやめた。
そしたら、そこにはどうにもならないでいながらどうにかなっている自分がいたのだ。
そして、声が聞こえた。
「泣くなよ。さびしくないよ。あなたには私がついているじゃない。弱くても生きているのだから
互いに励ましあっていこうよ」と。
「いい子」の仮面をはずした、弱いありのままの本来の自分をようやくみつけて抱きしめられた瞬間
でもあった。
つまり、「自分には絶対見捨てないもう一人の自分がついているから何があっても大丈夫、
ひとりぼっちではない」という自己肯定感をつかんだ。
ここまでくるのに1ヶ月かかった。会社に復帰したのはそれからだった。
 
その後、私は会社に通いながら、第二の家庭の機能といえる、
クリニックのカウンセリングと自助グループを通して、甘えられなかった30年間の想いを吐き出した結果、
甘えられないというの枯渇がなくなっていった。
本来、家庭とはバランスよく甘え甘えられる場でしかるべきなのだから。
それを今更母にやってもらえない年齢になったゆりこママはそういう外部の人や団体の手を
借りて、山ほどの甘えを吐き出したわけだ。
ただ、自助グループにいてはいつになっても自分はアダルトチャイルド
(語源はアルコール症の家庭に育った子供達)から抜け出せないので、
あるときから参加するのをやめ、クリニックのカウンセリングのみで
アダルトチャイルドの部分も含むあらたな「自分」づくりに励んだ。
一時はアルコール症患者自身の自助グループに参加して、彼等の苦しみを聞いたりしたが、
それはかえせば、自分がどれだけ精神的に自立しているかを試す場でもあった。
しかしながら、甘えは吐き出されたが、そう簡単に一人暮しのさみしさは解消されなかった。
会社に行き始めても、ずっと会社に意味なく11時過ぎまで居残り、残業をして、周囲に迷惑をかけた。
食事も以前彼氏に沢山ごはんをつくって食べさせた分だけ包丁が握れなかった。
こうした行動は今の夫に出会うまで続いた。
妹に子供が産まれても、うれしくても、心の準備ができていなくて、なかなか会いに行けなかった。
私も子供がほしい、自分を愛してくれる家族が欲しいと切に願っていた。
そのさみしさ所以か、無意味な残業がたたったのか、またしても耳鳴りや扁桃腺炎でひっくりかえった。
仕方なく、実家にころがりこみ、母とはほとんど口をきかず、愛犬とじゃれあっていた。
実際、耳は聞こえないし、声も出ないので、ちょうどよかった。
母と対面すると、また飲み込まれてもたれかかられるのでは、と入院中は怖かったのだから、
これでもまだ進歩ではあったのだ。
産後の世話も母にはしてもらうのを拒否したゆりこママであった。
母と普通に話せるようになったのは娘ゆりこが1才になってからだ。
 
その後、結婚し、家族をもつことで適度に甘えられる環境が整うことで、
母にもう甘えを期待するのをやめ、一定の距離をおくことができるようになり、
ひとりぼっちのさみしさも解消され、一応、心の自立が達成された。
母自身もその後、もたれあう関係をやめ、ゆりこママと距離をおくことを学び始めたようだ。
今は孫の娘の世話をし、時にゆりこママの甘えもたまに聞いてくれるようになった母である。
いまでもときおりカウンセリングに行くが、本当につらいときだけである。ずいぶんと強くなった。
 
こうしたことを通して、ゆりこママは更に、
甘えすぎず甘えなさすぎずに他人とも支えあって生きることの大切さにも気づき、
それまでのことで友人や親に感謝するところは感謝した。
「人」の文字がもたれかかりすぎて「X」になっては、傷つけあうだけ。
でも「ハ」の字のように離れてしまうことも又さびしいことだと気づいた。
一方、結婚をあいもかわらず猛反対した母を共に説得してくれた現在の夫と、娘を授かることで、
ゆりこママが愛しても人は死なないと思えるようになり、父の死にまつわる自責の念も消えた。
 
私はかように、沢山の人の手を借りて本来の自分に納得のゆく物語を造るように
自分の生い立ちをたどりなおした。
ゆりこママはたまたまアダルトチャイルドという概念でもって自分史を編みなおして行くことで、
自分に欠けている、または、偏っていた部分に出会い、修正して行っただけのことで、
アルコール依存症の子供はみな同じ道のりをたどって回復するわけではない。
今もゆりこママは、本来の「自分」と自問自答し、時に人と支えあいながら、
新たな物語を造っている。
 
もちろんいい話ばかりでない。
今は母とはそれなりの関係をたもっているのでもたれあいの問題はなりをひそめているが
「不安が不安を呼ぶという症状」は一生治らない。
長年、甘えられなかった所以に、居所がなく不安定な状態にさらされた結果、常に白黒つけないと
気がすまない性格になっているのだ。
そのため、不安定な状態にさらされると白黒つけられない分、
心に「灰色でいようとする自分」と「白黒つけたがる自分」の間に葛藤が生じ、不安が増幅する。
だから、これからもいつ爆発して、一番はじめに書いたような
身体的症状や心理的症状になるかわからない。
時にいろんな育児、仕事のストレス、夫の転職などで不安が増幅されて、
いまだに、ふとんにくるまって、会社に行かなくなることがある。
家事も育児もまともにしないで放置することがある。
それでも、うちの夫こと、ゆりこパパは気にもかけない。
出会ってすぐになぜか、ゆりこパパには、自分の病と入院していたことを素直に話せたから。
そして、妊娠中に暴れまくって、ゆりこママが発狂するとどんな修羅になるかよく知っているから。
(詳しくはエッセイ「育児」をみてください。)
だから、たかが、抑うつになってふとんにくるまっていようが、家の中が汚かろうが、びくともしない。
ありがたいことである。

終わりにかえて

そして、最後に、この文章をHPに載せたことで私は「COMING OUT」したことを宣言する。
つまり、自分が心因反応又は不安神経症の持ち主で、入院歴があることを「暴露」する。
前にも述べたように、精神病院にいたことは、その後、なかなか人には言えなかった。
自分が傷つかないようにするには、誰に話して、誰に話してはいけないのかがわからなかった。
はじめに、大学時代にお世話になっていた神父様に打ち明けた。
「申し訳ないが、とてもおもしろい内容だ。」
と前置きしてから、神父様はこう言った。
「あなたの手は神様の手なんだよ。大事にしなさい。」
ゆりこママは泣きながら、なんども「ありがとう」と言った。
次に、大学時代の友人達が一同であつまる場で、
自分が精神病院にいたこと、それによって、違う目でみられることのつらさを打ち明けた。
皆、にこにこして聞いてくれた。
そして、「あなたはあなたなんだからみな好きなんだよ」といってくれた。
こうして精神病患者であることの重荷を感じつつも、
わかってくれる人はいるのだという確信を得た。
当然、わからない人もいるだろう。
でも、それがいてこそいろんな意見のゆきかう社会はなりたつのだから理解できない人を
おかしいと決めつけるつもりはむろんない。
そういう人達に対して一種のあきらめやすさができたので
もう自分が不安神経症であることを打ち明けることは怖くない。
それにはじめに書いたが、「心の病」は誰にでも明日ふと起こる病なのだから。
 
最後に書こう。
アダルトチャイルドの自助グループでもアルコール症患者の自助グループでも
かならず、集会の終わりに手をつないで輪になって唱える言葉を。
平安の祈り
(Serenity Prayer)
 
神様、わたしにお与えください。
(God grant me)
 
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを、
(the serenity to accept the things I cannot change) 
 
変えられるものは変えていく勇気を、
(courage to change the thing I can)
 
そして二つのものを見分ける賢さを。
(and wisdom to know the difference)

今もこの言葉をかみしめながら毎日を過ごして、不安神経症のたゆまぬ回復に努めている。

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