無駄な仕事


まえがき

「無駄な仕事」と聞くと日常の仕事の中での無駄を省いて効率良く仕事をする方法とかを考えてしまうかもしれませんが、ここではそのような小さな無駄ではなくて、無駄な職業、無駄な事業について考えてみたいと思います。

このようなことを考え始めたきっかけは、私が携わってきた仕事の中で、「住民基本台帳カードの開発」というお仕事がありまして、開発が一段落すると同時にその職場からは離れ、カードの交付が開始された月にいそいそと区役所に行き、500円の手数料を払って、ニコニコして住民基本台帳カードを手にして帰ってきました。
その後「免許証(か何か身分証明書)を見せてください」と言われたら、必ず住民基本台帳カードを見せるようにしているのですが、苦笑いをされて「それは見せなくていいです。免許証はありませんか?」と言われてしうことが少なくありません。

予想されていた事態ですし、開発中もこんなもの必要な人いるんかなと思いながら開発していたとはいえ、やはり開発に携わったものとしては悲しくなってしまいます。

また、住民基本台帳カードの最も大きな特徴は、大容量、高機能、高性能ICカードを使用していますので市町村ごとにICカードを使った独自のサービスを展開できるということです。しかし、私の住む川崎市では、ICカードを使った独自のサービスというのは何も考えていないそうです。おそらく日本中探してもICカードの機能を活用した独自のサービスを提供している市町村は少ないでしょう。

私は主にICカードの試験に関わってまして、試験用のソフトウェアの開発及び、メーカー各社が行う試験のサポート、監査を行っておりました。
メーカー各社が試験を実施する段階の仕事の内容は実に退屈なものでした。
具体的に言うと「朝、誰もいない試験場の鍵を開けて、電話線もインターネットもつながっていない部屋で8時間『ぼーっ』として、夕方鍵を閉めて帰る。」
という仕事。
もう少しわかりやすく言うと
「受付のおじさん。」みたいなものだが…

その仕事をまわされたとき、最初の話しでは「暇すぎて精神に異常をきたさないように1ヶ月で担当を交代する。」
ということでしたが、1ヶ月経ったときに「1ヶ月経ちました担当を替えて下さい。」と言うと「他に仕事はない。嫌なら辞めてもらう。」と言われました。
そのときすぐにでも辞めるべきでしたが、目先の生活の為に仕事の区切りがつくまで1年近く続けました。
(精神に異常をきたさないよう自分なりにいろいろ工夫したので、とりあえず精神病院に入れられることはなかった。)
結局「受付のおじさん」の仕事がなくなると同時に契約終了となり、さようならしました。次の仕事を見つけるまでに1週間ほど右往左往しましたが、開発しているもの自体にも価値を見出せなかった上、担当している仕事にもやりがいも何もなかったので、さようならできて良かったと思います。


第一章:分類

人が生きるためには食べなくてはならない
人が生きるためには安心して眠れる家があった方がいい
人が生きるためには寒さをしのげる衣服があった方がいい
人が生きるためには暇つぶしの方法があった方がいい
食べるためには食糧を手に入れなくてはならない
食べるためには料理した方がいい
家を建てるには資材がなくてはならない
家を建てるには建設用の道具があった方がいい
衣服を作るには布がなくてはならない
衣服を作るには針があった方がいい
暇つぶしの方法は何でもいい
食糧を手に入れるには生き物を捕らえ(採取し)なくてはならない
生き物を捕らえる(採取する)には育てた方が簡単な場合もある
料理するためには調理器具があった方がいい
家を建てる資材を手に入れるには…


と下にいくほど別にあってもなくてもどうでもいいものになっていく

あまり深く考えないで[衣食住]+[暇つぶし]と分類してみたが、もう少し考えてみると人が生きるために必要な仕事は次のように分類できる。

@「食に関する仕事」
A「睡眠・休息に関する仕事」
B「生殖に関する仕事」
C「病気や怪我の予防と治療に関する仕事」
D「生命そのものを直接的に守る仕事」

これらの生きるために直接関わる仕事以外は
E「暇つぶしと娯楽に関する仕事」ということになるだろうか。

衣服などは「病気や怪我の予防」が主な目的で夏の衣服は生殖器を隠すという意味の他にはファッションという娯楽の意味合いが強い。

この@〜Eのどれにもあてはまらない、あるいは@〜Eのどれかに多少は関わっていても、かなりかけ離れた仕事が「無駄な仕事」になる。

「軍隊」はどこに分類されるか考えてみる。

D「生命そのものを直接的に守る仕事」
かなあと漠然と考えていたが、元々軍隊の存在意義は、敵国を攻めて占領するためにある。
「敵国を攻めて占領する」とはどういうことか?何の為に行うのか?食糧を奪うためであれば、@「食に関する仕事」になるが、人を殺してまで食糧を奪いに行くか?そもそも食糧が足りてない国が戦争を起こして勝てるのか?やはりちょっと違う。となると何のためか?

相手を殺してでも奪いたいものと言えば、やはり女とか自分達の子孫が繁栄するための土地だろう。となると軍隊の存在意義はB「生殖に関する仕事」ということになる。

専守防衛の軍隊は元々の存在意義を忘れた骨抜きの軍隊ということだ。

「葬儀屋」はどれに分類されるか考えてみる。

A「睡眠・休息に関する仕事」だろうか?もう死んでるのだから休息ではない。

D「生命そのものを直接的に守る仕事」だろうか?もう死んでるのだから全然違う。

E「暇つぶしと娯楽に関する仕事」だろうか?暇つぶしにやってるわけではないし、当然娯楽でもない。

では何のために葬儀を行うのか?建前上は故人のためということになってるが、葬儀を行おうが死体を海に投げ捨てようが、故人にはどうでもいいことだ。となると、やはり残された家族のためということになる。家族の心のケアという意味で、
C「病気や怪我の予防と治療に関する仕事」に分類できる。


E「暇つぶしと娯楽に関する仕事」について。

暇つぶしと娯楽のためだとわかって依頼される仕事はさして問題ない。芸能界やゲーム業界はその点恵まれている。
問題は、依頼主が自分の暇つぶしや自己満足のための仕事だと気付かないで、まるで大層な大義名分でもあるかのように言ってくる仕事だ。

そういう依頼主からの仕事は、遊び心を入れると「ふざけている」と白い目で見られるし、どうでもいいことでやたらうるさいことを言う。
「もうあんた一人で勝手にやったら」と言いたくなるがなかなかそうはいかない。

私にも部下がいたり、外部に仕事を依頼したりということもあった。
そのときどんな仕事を頼んでいたか?
昔のことはよく覚えてないが、それなりの仕事を依頼したこともあれば、私自身の自己満足のためだけの仕事もかなりの頻度で依頼してたと思う。たぶんそのときは自己満足のためだけの仕事だとは気付かないで依頼してたので、細かいことにうだうだと文句を付けてたような気がする。そんな仕事だと気付いていた人は、やはり適当にやっていたと思う。当時はそうゆうことに私は気付いてなかったから、単に能力、意欲が低いのだと馬鹿にしてたかもしれない。



第2章:無駄な仕事とは

深代惇郎の天声人語より、これぞまさしく無駄な仕事と言えるものがあったので紹介します。

「現代の狂気」
 たしか、ロシアの作家ドストエフスキーの「死の家の記録」だったと思う。囚人に苦役を科し、土の山を別の場所に移し、またもとの山に戻すといった仕事を繰り返させたら、数日で首をくくって死ぬだろう、といっている。
 これほど残酷な仕事はない。目的や意味があれば、たとえ苦しいことでも我慢する。だが、まったく無意味なことを自分で知っていて、しかも努力することはできない。それを強制されれば、ついに自分が自分自身に反抗するようになる。瀬戸内海の岩国で魚をとる人たちのニュースを読んで、思わずこの話を連想した。
 岩国では汚染源の東洋紡の工場が、海でとった魚をすべて買い上げることにきめた。明け方、漁船が帰ってくると、工場のトラックが待っている。魚種ごとに魚の目方をはかったあと、工場にはこび、タンクに汚染魚を捨てる。悪臭を放つ魚に、市場値の金が払われる。
 はじめのうちは、取れば取るほど金になるので、精を出して出漁する人もいた。が、やがて漁師たちの疑いがふくらんでくる。毎日、海に出るのは、捨てるための魚を取るためではない。金になりさえすればよいと、いつまでも割り切れるものではない。たとえささやかでも、自分の仕事に何らかの意味がなくては生きていけない。
 「何のための人生か。漁師だっておいしい魚を食べてほしいのだ」「情けのうて涙が出ます」と、口々に訴える声は胸をえぐる。岩国だけではない。鶴賀湾でも、工場のコンクリート箱に投げ捨てるため、人々は漁に出る。
 ゆがんだ社会は、とうとうここまで来てしまった。それは血が凍るような「現代の狂気」としかいいようがない。もしこの異常さを異常と感じなくなったとすれば、すでに人間は狂気を帯びつつあるのだ。(48.6.16)


「牛歩戦術」
これぞまさに「無駄な仕事」の代表格ですね。
あんな馬鹿げたことを国民の代表がやってるのだから、どうしようもない。


「診断書」
生後2ヶ月半の娘が入院したときのことだ。
幸い大したこともなく退院でき、退院後も順調に回復に向かいましたが、一つ疑問があった。国民共済に加入していたので、保険の申請をしたところ「医師の診断書が必要」と言われたのだ。病院の領収書には、入院期間○月○日〜△月△日と明記されているのだから、領収書の写しで、入院していた事実も期間も明らかなのだが、杓子定規に「診断書が必要」と言われたのである。診断書を書いてもらうと5000円かかるが、その診断書代も保険組合から出るそうだ。しかし、病院まで診断書の申請に行く交通費は当然出ない。診断書代に5000円も出してくれるよりは、当然、保障額に5000円上乗せしてもらった方が助かる。無駄な手間もかかる。
なんと無駄な仕事だろう…


「右辺と左辺」
約10000行のプログラムを他機種に移植する仕事を請けたとき、その元プログラムは、全ての比較式の左辺が定数、右辺が変数になっていた。

今までそんなプログラムは見たこと無いし、自分が担当する上では間違いの元だし、なにより気持ち悪いし、頭がおかしくなりそうなので、移植に入る前の前作業として、半日かけて全ての比較式の左辺と右辺を入れ替えた。("<"と">"も全部書き換えた)この作業は、私にとっては意義のあることで、たいして苦にもならなかったし、むしろどんどんきれい読みやすくなっていくのですっきりした。

しかし、この作業を右辺が定数だろうが、左辺が定数だろうが、どうでもいいと思っている人に任せたらどうだろう?しかも、逆にしないと気がすまない人からは、全く逆の作業を同時に依頼したとしたら…


「おもちゃ」
今の子供達にはおもちゃがあふれかえっている。うちの子にもそんなにおもちゃを買ったつもりはないのだが、気が付いたら部屋の中はおもちゃの山になっている。

おもちゃを作る人は、何よりも子供の喜ぶ顔を見たくて作るのだろうが、お子様ランチに付いてるおもちゃなどは、喜ぶのは包装を開けた瞬間だけ。あっというまに興味を失いポイする。

500円も600円も出して買った人形ですら嬉しそうに持ってるのは、買った日だけ。翌日にはもうポイされてる。大失敗だったのがクリスマスプレゼントに買った5000円のしゃべるぬいぐるみ。2、3日で飽きられてポイされた。長く使えてるのは三輪車とブロックくらいだろうか。

ものがありすぎるから一つ一つに価値を感じない、ありがたみがない。

そうかと思えば、単純に叩くだけという、とある携帯電話ゲームの全国ランキング1位の得点は150万点。1回叩くのに約1秒かかるから1日8時間やったとしても約50日かかる計算だ。

不思議な世の中だ。

この携帯電話ゲームで150万点取った人の名前が

↓ばか?
1500000点

だった。150万点という異常な数字と、その異常な点数を稼ぎ出す行為の意味を実にみごとに表現している名前だったので、おもわず吹き出してしまった。

その一瞬の笑いをとるためにのみ、150万回も携帯電話のキーを叩き続けたのかと思うと頭が下がる。

「参議院選挙」
共産党が過半数を占めれば、少しは参議院の存在価値も出てくるだろうが、与党が過半数を占めるような参議院など全く無意味。


「いくら調べてもわからないが、知っている人に聞けばすぐわかりそうなことを調べる仕事。」
知ってる人が休んでるときに限ってこういう仕事が発生する。


「警備員」
もともと車が一台も通らない道路を通行止にするために一日中立っている警備員。

バブルの頃はそんなアルバイトもあったなあ。今もあるんだろうか?


「ペットボトル」
海外では、PETボトルを洗って傷だらけになったものを何度も再利用する国もあるらしい。ピカピカでないと気がすまない日本人の感覚こそが無駄を生み出す。
ちなみにうちの妻は2Lペットボトルを漂白剤で洗ってはつくったお茶を入れて再利用しているが、これは無駄のうちに入るのであろうか?


「遺伝子組み換え」
今冷蔵庫の中に入っている納豆は「遺伝子組み換え大豆は使用してません。」と書いてある。遺伝子組み換えの研究をしていた人達はどんな気持ちでこれを見るのだろう。。。


「会計検査院システム委託費」
 2003年度は随意契約で約2億4000万円かかった会計検査院のコンピューターシステムの運用業務委託費が、業務内容の見直しや一般競争入札の導入などにより、来年度は30分の1以下の約730万円ですむことになった。

 中央省庁のIT(情報技術)調達は、専門性の高さなどから業者任せになりがちで、随意契約によって無駄の多い支出が漫然と続くケースが問題視されている。公費支出の監視役である検査院でさえ例外でなかったわけで、「IT調達の闇」の深さが改めて浮き彫りになった。

 運用コストが見直されたのは、検査院のコンピューターシステムでは最も大規模な決算確認システム。NTTデータが開発し、03年度に稼働を始めた。同年度は、システムの運転、保守などの運用業務をNTTデータが随意契約で請け負い、委託費は総額2億4000万円かかった。

 検査院は02年度の検査報告で、各省庁のIT調達の問題点を指摘した経緯があり、内部でも自主的にチェックしようと、04年4月、民間のコンサルタント会社に依頼し、決算確認システムの運用委託費の検証を始めた。

 その結果、それまで「システム運用のため」として、連日、庁舎内に常駐していたNTTデータ側の3〜1人が、実際にはほとんど業務がないことが判明。

 必要な時に専門家を呼べるサービスを別の業者に委託すれば常駐の必要はなく、人件費を大幅に削減できることがわかった。


「C++」
class AAA{
public
int Getaaa();
void Setaaa(int aaa);

private:
int m_aaa;
}

AAA::Getaaa()
{
return m_aaa;
}

AAA::Setaaa(int aaa)
{
m_aaa = aaa;
}

m_aaa を public にすればいいじゃないか!


「スキルアップしない仕事」
社会的にはほとんど役に立たない仕事であっても、自分の(職能的、精神的、肉体的)スキルアップになる仕事は無駄とは感じない。

スキルアップになる仕事であれば、役に立たない無駄な仕事の中にもわずかな価値を見出して、がんばることができる。

社会の役に立たない上にスキルアップにもならない仕事は「無駄」と感じる。


「時計」
時計というものが発明されていなければ、時計というものがこの世からなくなれば、人はずいぶんとゆったりした人生を歩めるに違いない。


「31アイスクリームに長蛇の列」
ある日、サーティーワンアイスクリームに200〜300人の長蛇の列ができていた。

何事かと入り口を覗くと「ユニセフ募金に協力した人にアイスクリームを1個プレゼント」と書いてある。

そんなもののために200人もの長蛇の列に並ぶ人の気が知れない。
(大半は子供だったが)

アイスクリームでももらわないと募金もできない心の貧しさ。

アイスクリームをもらうためなら1時間も2時間も並ぶ貧しさ。

それだけの長蛇の列にアイスクリームをくれてやるなら、その売り上げ相当のお金をポンと募金に回せばいい話なのに、長蛇の列を作ることによる宣伝効果を狙う企業の卑しさ。

おそらく日本中のサーティーワンで見られたであろうこの光景は、日本人の心の貧しさを浮き彫りにした現象だったと言わざるをえない


「業務の効率化」
その業務の効率化とやらが終わっても、さして効率は良くなっていないし、新しいやり方を覚えるのに時間がかかる等、むしろ無駄な作業が増えていたりする。

先頭に立って懸命に業務の効率化を推進している人間は自分の存在が一番無駄だとは夢にも思ってないからたちが悪い。


「高いレストラン」
東急百貨店の5Fにあるレストランに入ったときのこと。父の日(の前日)ということで、ちょっと奮発してステーキでも食いに行こうということになったのだ。

まず店に入る前に目に入ったのが立派な看板においしそうな数々のメニューの写真。これはおいしいに違いないと思い店に入った。

値段はちょっと高目だが、その分おいしいに違いないと期待は高まる。ウェイターを呼んで、注文する。注文した後に隣の客が同じメニューを注文していたのを聞いて、ふと気付いた。ステーキのソースを指定していなかったのだ。慌ててそのウェイターを呼び「ソースは和風おろしね」と注文した。
ウェイターはメモもしないで「和風ね」とそっけない。嫌な予感がした。

それから10分後、後から来た隣の客にはサラダとスープが出ているのに、サラダとスープが来ない。店内を見ると土曜の夜の一番客が入る時間だというのに、ウェイターは2人しかいない。店の広さと混み具合を考えると4人は必要だろう、明らかに回っていない。かわいそうなのでサラダとスープはとりあえず我慢した。

しばらくするとお子様ランチのカレーが来た。
量が少ない・・・
うちの子が食べる量の半分しかない。ハンバーグはいかにもインスタントの冷凍食品といった感じ。お子様ランチにはよくあることだが、たったこれっぽちで700円も取るのかとかなりがっかり。えびフライが付いてるだけましか。

それから待つこと10分。ようやくステーキが来た。
小さい・・・
きっといい肉を使ってるから小さいのだろうと期待してナイフを入れた。
切れない・・・
高い肉も安い肉も肉は肉。どんな肉を使っていたとしても上手に焼けばおいしくなる。しかし、明らかに焼きすぎてガチガチに堅くなってる。妻が聞く「おいしい?」せっかく父の日のプレゼントと奮発してくれたものをまずいと言うわけにもいかず「おいしいよ」と答えた。
妻の笑顔が痛い。
ところでサラダとスープはまだ来ない。さすがに痺れを切らしてウェイターを呼んで持ってきてもらった。サラダとスープもしょぼいがまあいいか。

帰りの車の中で妻が言った。
「私、イタリアンカレーを頼んだはずなんだけど、タイ風のカレーだったよ。」

もう2度と行くことはないだろう。

いつも行く安いレストランの倍の値段で半分のサービスを受けたという気がするが、自分の仕事を振り返ってみると、このレストランのようなことをしてたかもしれないと、しばらく考え込んだ。


「便利な道具」
ある仕事を100こなすのに10日かかっていたとする。

そこに便利な道具が登場し、100の仕事をこなすのに5日で出来るようになったとすると、売上が倍に増えそうな気がするが、実際は単価が半分に下がり、売上も半分に下がる。

何のために便利な道具を導入するのか意味がわからない。


「問い合わせ」
公開してるフリーソフトへの問い合わせの電話がきたことがある。

問い合わせメールは何度かあったが電話がきたのは1回だけだ。

問い合わせに対して言いたいことはいつも決まってる。
「手の施しようがございません。ご愁傷様です。」だ。

いきなりこう答えると相手を怒らせるだけだろうから、丁寧に説明することにしているが、最終的には何をやっても無駄だと、あきらめてもらうしかない。

今度問い合わせがあったら、相手の話も聞かずに
「手の施しようがございません。ご愁傷様です。」
と答えてみようか?

どんな反応するだろう?


「フライング」
まだ発注書のきてない仕事

前倒しで進めてたら、キャンセルになった。。。。(涙

次の仕事も前倒しで進めてたら、全然仕様が変わって無駄になった。。。(涙


「野村証券のうさぎとかめ」
株を買ってみようかと思い立った今日この頃。

資金はないのでとりあえずミニ株の資料を請求した。

ミニ株と同じくらいの金額で買えるものに積み立て投資というものがあるらしい。

積み立て投資の説明を読むと、毎月々同じ株数を買った場合と毎月々同じ金額を買った場合では、1株あたりの購入金額(使ったお金÷持っている株数)は、毎月同じ金額を買った方が必ず安くなるというのだ。

あやしい…

必ずそうなるというからには何かカラクリがあるに違いない。

まず、本当に必ずそうなるのか、計算し、コンピュータでシミュレートもしてみた。

確かに100%、間違いなく、毎月同じ金額を買った方が安くなる。

これは何を意味するのか?

毎月同じ株数を買い続けることは絶対にやってはいけない損する買い方なのか?

もうちょっとシミュレートしてみた。

わかってきたことは、右肩上がりに株価が上昇した場合、毎月同じ株数を買い続けると、購入金額も増えるが、株数も多いので儲けも大きい。
毎月同じ金額では購入株数が少なくなり、儲けも小さい。

株価が下落し続けた場合は、毎月同じ株数を買い続けた場合は、購入金額が少なく、株数も少なく、損も少ない。
毎月同じ金額を買い続けた場合は、購入金額が多く、株数も多く、損も大きい。

上がり続けた場合は、毎月同じ株数を買った方が得をし、下がり続けた場合は毎月同じ金額を買った方が損をする。

あれ??どちらにしても毎月同じ株数を買った方がいいことになるのか???

実はこれのカラクリは、上がったり下がったりを繰り返した場合は、毎月同じ金額を買った方が得で、上がり続け、下がり続けの場合は毎月同じ株数を買った方が得になる(損が少ない)というだけの話だったのだ。

「1株あたりの購入金額」という、いかにももっともらしいが、その実は全く意味のない数字にだまされてはいけない。


「入院」
入院費と治療の内容だけを考えると無駄だったような…

点滴をして寝てるだけ…

水をがぶ飲みして家で寝てれば良かった…


「競馬投資ソフト」
http://www.chienowa.info/index.html
↑世の中には競馬投資ソフトというものがあるらしい。

これを使えば、自動的に金が増えていくというものらしい。

まあ、ちょっと考えれば、自動的に金が減っていく機械だということはすぐわかるが、こんなものに騙されて105万円もの大金を払って買う人間がいるのだから世の中おもしろい。


「先輩の仕事」
先輩が行なっている仕事のうち、私の今までの経験、知識と照らし合わせて、どうしても理解できない行動がある。

もし後輩が同じ行動を取ったら、絶対にやめさせるような仕事だ。

もちろん、同じことを私にやれと言われれば猛然と反対し、絶対に引き受けない。

その行動による結果について客先からクレームがついたとき、私を含む会社全体の責任だと言われた。

それはおかしいからやめろと注意はしたが、後輩の言うことには強制力がない。

会社全体の責任ということなので社長にも相談したが社長は全然問題視していない。

社長が問題視していないのだから、末端の一社員としては先輩に注意をしても仕方がないと放っておく。

先輩の哲学の領域には踏み込んでも仕方がないが、そのとばっちりを受けたときには、文句の1つも言いたくなる。

いまのところは理解不能な哲学に沿った行動にしか見えないが、いつかその行動を理解できるようになる日がくるのだろうか?


「保険証」
遠方に遊びに行き、そこで蕁麻疹が出たので救急病院にかかった。とりあえず仮払金だけ置いていき、そのことは忘れていた。すると3ヶ月経って、請求書が届いた。

保険を適用すれば仮払金でおつりがくる金額なのに、かかったときは保険証を持ち合わせていなかったので、保険が適用されていない金額で請求された。しかも、窓口まで直接持って来いと書いてある。あまりにも馬鹿らしいので、保険証のコピーを郵送するだけで終わりにするつもりでその旨を伝えようと電話したところ、

係「3ヶ月も前のことなので、もう保険の手続きはできません。」
私「なぜですか?」
係「1ヶ月ごとに処理を締めてますのでもう保険は適用できません。」
私「それは理由になってないですよね?」
係「最初にお渡しした紙にも1週間以内に持ってきて下さいと書いてありましたよね。全額お支払い頂いた上で、保険組合に申請して下さい。」
…私は、そんなめんどくさいことができるか!と内心思った。…
私「できないわけじゃないですよね?めんどくさいだけですよね?」
係「そこまでおっしゃるのなら、上司と相談しますのでお待ちください。」
…しばらく待つ…
係「今回だけは特別に保険を適用致しますので保険証をお持ちください。」
と言いやがった。
やっぱりめんどくさいだけだったのだ。

その後「保険のコピーを送るだけで済ませたい」とも言ったが、そこは頑として「原本を持ってきてください」とゆずらない。保険は適用されることになったし土曜日でもいいと言うので、ドライブがてら遊びに行くつもりでまあいいかと納得した。

車で1時間半だからまだ行くことができるが、これが北海道とか九州に住んでる人だったら、どういう受け答えをしたのだろうかと疑問に思う。


「勤務時間」
40年前、スバル360は当時のサラリーマンの年収の2倍くらいの価格だったらしい。現代では軽自動車はサラリーマンの3,4ヶ月程度の収入で買える。その比較からすると、現代人は40年前と同様の生活をしていれば、半年働けば1年半は遊んで暮らせる計算になる。

失業率が5%程度で高いと問題視するのは全くおかしな話で、失業率は50%くらいになってもまだ余裕があるはずなのだ。

いま、ニートが社会問題となっている。
ニート(NEET)とは、「Not in Employment, Education or Training」の略で「就職せず、学校へも行かず、職業訓練もしていない」人々のことで、イギリスで使われている言葉である。

若者たちは「現代人は半年働けば1年半は遊んで暮らせる計算になる」ということを感覚的に気付いている。だから一旦就職してしまうとろくに休みも取れない社会に出ることを拒否しているのだ。

「勤労感謝の日」を年間100日くらいに増やせばニートの問題は簡単に解決するであろう。

「一日4時間勤務」「週休4日」が当たり前の社会になる日は来るだろうか?


「おばけ」
おばけなどの有り得ないものを見たときに、何とかして、それはおばけではないと科学的に立証しようとすること。


「高等な生物程、短時間労働で効率良く生きている」
とすると、人はかなり下等な生物だなあ…


「生命保険」
「俺が死んだ後に金が入ってこようと金が無くなろうと俺の人生には全然関係ない。毎月毎月高い保険料を払ってる金があればそれだけおいしいものを食べられるし、数ヶ月貯めれば旅行にも行ける。あんな無駄なものはもう止める。」

と妻に言ってみたいが言えない…


「延命治療」
延命治療を行おうが行うまいが、死が迫ってることに変わりない場合、無駄な延命治療を行うよりは、家族と最後の別れの時間を過ごさせてもらいたいものだ。


「生きること」
生きることが無駄だとしたら、世の中の全ての仕事は無駄である。

無駄なことだと気付かないうちは一所懸命頑張れる。

無駄なものだと気付かないうちは客もお金を払って買う。

無駄だとわかっているのに無心に頑張ることはできない。

今の仕事が無駄だと思うだけなら転職し、無駄なものかどうかわからない仕事を始めればいい。

しかし、全ての仕事が無駄に終わると思っているなら、明日から何をめざして仕事をすればいいか?

生きること自体が無駄とは思いつつも、生きていくにはお金がいる。

無駄だと思いつつも仕事はしなくてはならない。

作る側、売る側、サービスする側としては、無駄なものだと気付かせないように、何か意味があると思わせるようなものを作り、売り、サービスすれば、とりあえず売れる。

複雑なものであればあるほど、意味ありげで、無駄なものとは気付かれにくい。

しかし、複雑すぎて何がなんだかわからないものには、客は金を払わない。

作る側、売る側、サービスする側が無駄だと思っているのに、客には無駄なものだと気付かせないようにするのはなかなか難しい。

とりあえず難しいことに挑戦してみようと思う。
(詐欺師になる気はない。)



第3章:無駄の意味

世界一つまらないホームページ
http://www.kisaragiweb.jp/pi/

「つまらない」と「おもしろい」でyahoo検索してみると
「つまらない」で検索すると結構おもしろいホームページが見つかるのに対して、
「おもしろい」で検索するとつまらないホームページばかりひっかかる。

「つまらない」で検索したときは期待してないし、「つまらない」と公言しているものの作者は謙虚だから、ちょっとしたものでもおもしろく感じるが、「おもしろい」で検索したときは期待が大きいから意に反してつまらなく感じるのだろう。


「定休日」
神奈川県のとある朝鮮料理屋のメニューに「定休日:気分の乗らぬ日」と書いてあった。
個人のお店の場合、実際に気分の乗らない日は休みにしているお店も少なくはないと思う。

しかし、メニューや看板に堂々と「定休日:気分の乗らぬ日」と書いてあるのは他では見たことがない。

理想を実行し、公言できるのはうらやましくもあり、尊敬できる。


「ボランティア」
とある盲学校の先生から「弱視の子供達のためのゲームソフト作り」という、とても有意義な仕事を頂いたことがある。仕事とはいっても会社を通して得た仕事ではないし、お金は受け取っていない。作ったものは後で個人的に販売しているが、個人で売りに出したところで、売上はほとんどないので、仕事として考えるとボランティアに近いが趣味としてはとても楽しい。


「時計」
夜いつまでたっても遊び続け、寝る準備をしない子供に、

「長い針が12のところになったら、『おばけまん』が来るって言ってたよ。」

と言うだけで、今までは30分〜1時間かけてのろのろのろのろやってた歯磨きと、お着替えを、なんとわずか5分でささっとできるようになった。

大人にとっての時計も「おばけまん」のところが「評価」とか「評判」のような見えない何かに変わっただけで、支配者階級にとっては実に便利でおもしろい道具なんだろうな。と思った。


「グリーンピース」
私はグリーンピース農家。

グリーンピースを育てて15年になる。

シュウマイにグリーンピースを乗せると、

数えやすくなるというメリットもある。

料理の彩りを飾るのに欠かせない大事な作物だ。

しかし、私はグリーンピースが嫌いだ。

おいしくない。

グリーンピースを残さないで食べる人もたくさんいる。

人から聞いた話では、グリーンピースが大好きな人もいるらしい。

しかし「グリーンピースが大好き!」という人にはまだお目にかかったことがない。

私の子供たちも皆グリーンピースが嫌いだ。

長男、長女は、グリーンピースを端によけて、きれいに残す。

まだ小さい次男は、ついに嫌いなグリーンピースを投げた。

彩りのためと自分に言い聞かせて、育ててきたが、もう限界だ。

グリーンピースを栽培するのはやめよう、

次からは大豆にしようと思って、大豆に関する本を買いあさった。

そんなある日妻が次女の赤ちゃんにグリーンピースを食べさせようとしていた。

私は言った「やめとけよ。うちの子は皆グリーンピースが嫌いなんだ。また投げられるぞ。」

「えっ?そお?食べるかもよ。」

妻はまだあきらめていない。

赤ちゃんは食べた。

どうせすぐにベーするだろうと思って見ていたら、

自分で摘んでパクパクと食べ始めた。

しかも、にこにこしながら食べている。

私は感激して泣いた。

この15年は無駄ではなかったと、またグリーンピースを作ろうと。


「有人宇宙飛行」

中国では有人宇宙飛行が成功した。

これに対し日本の反応は「有人宇宙飛行なんて大した意味はない」とか「技術的には20年も30年も遅れている」など批判的な意見もある。

しかし、有人宇宙飛行そのものに大した意味や技術的な進歩はなくても「有人宇宙飛行成功」という言葉の響きにより国民の意欲を高めた効果は大きいと思う。


「悪口と陰口」

悪口を言われた人は気分が悪い。
悪口を言った人は性格が悪いと嫌われる。
陰口を言われた人は自分の知らないところで評判が落ちる。
陰口を聞かされる人も気分が悪い。
陰口を言った人も性格が悪いと嫌われる。

全く悪いことだらけで、いいことなんか1つもないように思える。
それぞれの立場でこれらの意味を考えてみる。

悪口を言われた人は、その悪口を聞くまでは、自分がそんなふうに思われてるとは夢にも思ってないが、その悪口のおかげで、自分の欠点を知ることができる。

悪口を言った人は、とりあえずすっきりする。

陰口を言った人も、とりあえずすっきりする。

陰口を聞かされた人は、自分と同じ考えだった場合は、自分と同じ考えの人がいると安心できる。自分と違う考えだった場合は、そのような考え方もあるんだと考え方の幅が広がる。

ここまではなんとかこじつけで、意味を見出せる。
問題は、陰口を言われた人。
自分の知らないところで評判が落ちることに何のメリットがあるだろう?

ちょっと考えただけでは、思いつかない。

そういう意味で、本人に直接言う悪口より、陰口の方が悪だと言えるかもしれない。

あえてこじつけるならば「○○さんがあなたのことを××と言ってたよ。」と誰かに告げ口されることで、自分の欠点を知ることができる。

では告げ口がなかった場合、自分の知らないところで陰口を言われることのメリットは何だろう?

陰口を言った人が嫌われていたり、信用されていなかった場合は、陰口を言った人はますます嫌われ、自分の評判を落とす。
陰口を言われた人は、同情されることによってむしろ評判が上がる場合もあるかもしれない。

陰口を言った人が好かれていて、信用されていた場合はどうだろう?
例えその陰口を言われなくても、人にそう思われていることに変わりはない。
それを知ることがなくても、知る必要がないことなら知らないで済む方がかえって幸せなのかもしれない。
さすがにメリットは思いつかないが、何にも知らないままなら、本人には影響がないとも言える。
影響がなければ陰口を言われた人にはメリットもデメリットもない。

よって陰口は言った人と聞かされた人のメリットをもって意味があると言える。


「遺伝子組み換え」

納豆のパッケージに「遺伝子組み換え大豆は使用してません。」と書いてあれば、誰でも遺伝子組み換え作物には大変な問題があるんだ…と勘違いする。

ある人は遺伝子組み換え作物を食べると、人間の遺伝子にも異変が起きて、癌になると勘違いしていた。

私も具体的な問題点など知らないままに、そうかあ遺伝子組み換えには問題があるんだあと思って、ここに投稿した。

しかし、TVの遺伝子組み換えの特集を見ていたら、どうやら具体的な問題点は特にないらしい。

・遺伝子組み換えなどを行ったら、どんなことになるかわからない。
・遺伝子を操作するなんてことは、神の領域で、人間が行うのは倫理に反する。

という抽象的な嫌悪感を持つ人々が、ありもしない噂を立てたり、納豆のパッケージに「使ってません!」とあたかも使わないことが正しいことかのように広めているだけらしい。

倫理というものは、いつの時代でも最先端の技術、理論には批判的だ。

遺伝子組み換え作物を作る理由は主に作物を丈夫で害虫が付きにくいものにするといったことらしい。

農薬を使わないで害虫が付かないなら、農薬を使ってる作物よりは、はるかにいい。

とはいえ、今のところはまだ、遺伝子操作に倫理的な嫌悪感はある。

また、遺伝子組み換え作物は、遺伝子組み換えじゃない作物と比べるとおいしくないという評判だ。

虫も食べないものがおいしいはずはないというあたりからそう考えられてるようだ。

実際に遺伝子組み替え作物とそうでない作物を食べ比べたわけではないので、真偽のほどは定かではない。

本来は、おいしいものを作るために遺伝子組み換えの技術を駆使してほしいものだが、現状はそうなっておらず、遺伝子組み換え作物=安物になっているようだ。

おいしくないとはどういうことか?
味覚というものは、元来動物に備わっている「危険な食べ物を排除するためのセンサー」だと思う。

○○だから危険という科学的な根拠はなくても「おいしくない」というだけで十分に避けて通りたいものではある。

遺伝子組み換えの作物は、そうでない作物より「おいしい」という評判が広まれば(おいしいものを作るために遺伝子組み換えを行えば)遺伝子組み換えの作物はあっという間に一般に浸透するだろう。


「おもちゃ」
大失敗だと思ったいつかのクリスマスプレゼントに買った5000円のしゃべるぬいぐるみ。2、3日で飽きられてポイされた。と思っていたら、3年も経ってからおもしろがってときどき遊んでる。

一時は無駄だったと思っても、時が経てば無駄でなくなることもあるんだなあと思う。


「犯罪」
犯罪は犯罪者にとっては、何か利益があるから犯罪を犯すのだが、犯罪者の利益をもって無駄ではないとするのは乱暴な話で犯罪者の利益はとりあえず無視して、被害者にとって何か利益、メリットはないか考えてみる。

被害者にとっては無駄どころか不利益ばかりで利益など微塵もないから犯罪なのだろうが、重箱の隅をつついて探せば、何か出てくるかもしれない。

[空き巣が被害者に与える利益]
私の兄が数年前空き巣に会い、部屋の中をめちゃくちゃに荒らされ、荒らされた部屋に住み続けるのは気持ち悪いと言って、即刻引越しをした。
その1年後には、マンションを購入し、現在は2重にも3重にも鍵をかけて快適な生活をしている。
空き巣が来ていなかったら、もしかしたらいまだにその部屋に住み続け不快な生活をしていたかもしれない。
空き巣のおかげで厳重な鍵も付けた。もし空き巣に遭っていなかったら強盗に遭ってたかもしれない。
現在の快適な生活は、あの空き巣のおかげかもしれない。

[詐欺師が被害者に与える利益]
犯罪ではないけれど、詐欺同然の中古車販売店で車を買ったことがある。
買って半年も経たないうちにエンジンの調子が悪くなり、修理の見積りを出してもらったら何と購入金額の7割もの修理代がかかると言われた。
馬鹿馬鹿しいので修理はしないで乗り続けたが、音はうるさいし、走ってる最中にいきなりエンジンが止まるというのではさすがに危険を感じて手放すことにした。
中古車買取の店に持っていったら、買ってから1年も経ってないというのに1/4の値段になってしまった。
詐欺に遭ったような気持ちだった。
自分にとっての利益は何かというと、今度、車や住宅などの高価な買い物をするときには、一切の妥協はしないと決心したことだろうか。
そのおかげで、住宅をいろいろ見てまわったときに、少しだけ気に入らないところがある物件を妥協して買う。ということをしなかった。
もし少しだけ気に入らない物件を妥協して買っていたら、今頃は高いローンと、その少しだけ気に入らなかった部分が日増しに拡大して、毎日嫌な思いで暮らすはめになっていたかもしれない。

人間万事塞翁が馬である。

犯罪の被害者も、被害に遭って悔しいとか悲しいとか言ってるばかりではなく、その被害をばねにして更なる成長を遂げるのだと思う。

とでも思わないと大損したことを後悔するばかりで、やってられない。


「パーキングメーター」

駐車禁止の路上に車を止めて300円払えば1時間だけはお咎めなしという不思議な物体。

車を止めても交通のじゃまにならないと判断されている道路にだけ設置されてある。

つまりはその道は駐車禁止にする必要性がないと認められているということだ。

普通に考えれば、駐車禁止の看板をはずせばいいだけのことだ。

100歩譲って国の財源のために道路を駐車場代わりに開放する代わりに駐車料金を支払えということであれば理解できる。

しかしそれならば時間制限をはずして、1000円でも2000円でも受け付けるようにし、4時間でも5時間でも止めるだけの料金を払えるようにするべきである。

1時間という問答無用の時間制限をつけて、それを超えたら問答無用で15000円を徴収するとは何たる悪法。

パーキングメーターを始めて使用したときは、素直に300円払った。

しかし、1時間で用事が終わるはずもなく、車に戻ると黄色いお札が付いていた。

「ああ、この機械は300円払うと15000円徴収される機械なんだな。」と解釈した。

今では、この機械に300円を入れることは絶対にない。

民間が作るものであれば、世間に無駄、無用のものと判断されれば自然淘汰されるのがあたりまえだ。

この不思議な物体を始め、お上が作るものには自然淘汰がないからタチが悪い。

一見無駄と思える物の価値を考えていくつもりだったが、公共事業に関しては無駄は無駄以外の何ものでもない。

意味不明で納得のいかないおしつけの論理では、駐車違反で捕まっても悪いことをしたと反省する者はいない。


「100年前になかった職業」

現代人は100年前の人達より幸せでしょうか?

確かに100年前に比べると物はあふれています。

医学も発達しています。

日本にいながら世界中のおいしい料理が食べられます。

サービスの種類も豊富です。

でも100年前と比べて幸せでしょうか?

100年前の人達はみな不幸だったのでしょうか?

現代人はみな幸せでしょうか?

現代人の方が幸せな人の割合が多いのでしょうか?

答えは否だと思います。

幸せな人の割合なんて、おそらく全くと言っていいほど変わってないと思います。

だとすると、100年前になかった職業は、あってもなくても構わない、人の幸せには全く影響しない無駄な職業ということになります。

さて、この仮説をどうやったら「一見無駄に見えるが実は無駄ではない。」という結論にもっていけるでしょうか?

幸せな人の割合は100年前も今も変わっていないという仮説を否定してしまうのが一番手っ取り早いのですが、その仮説は間違っていないとして何とかならないか考えてみます。

幸福とは何でしょうか?

絶対的な基準があるのでしょうか?

いいえ、幸福とは相対的なものです。

あの人と比べると自分は裕福だ。

あの人と比べると自分は人に愛されている。

などなど、比べる対象があって初めて幸福を感じます。

裕福な人がいれば裕福な人より貧しい人がいる。

これは100年前も今も変わりません。

幸せなんて他人と比べるものじゃない。

ともよく言われます。

他人と比べないとすると誰と比べるのでしょうか?

それは過去の自分です。

昨日は持ってなかったものを持っている。

昨日はできなかったことが出来る。

昨日までやってた辛いことを今日からやらなくていい。

過去の自分と比べて何かが良くなっていることで、人は幸せを感じます。

昨日と変わらないことに幸福を感じる場合もあるでしょうが、変わらないことが長く続くと、変わらないことは不幸になります。

100年前と比べて同じでは、100年前の人達と同じ幸福感を味わうことができないのです。

100年前の人達より、はるかに裕福で便利になってたとしても、10年前と比べて同じなら100年前の人達と同じ幸福感を味わうことができません。

昨日と比べてより良くなっていれば、ようやく100年前の人達と同じ幸福感を味わうことができるのです。

そういう意味で100年前になかった職業の人達が必要になってきます。

なんとも皮肉な話です。



「じたばた」

現代人の人生は、ごまかしの連続である。

まず産まれてすぐにふわふわの布団に寝かされる。

ふわふわの布団に寝かされることによって、絶対的な安心感のあった母体の中から追い出されて、厳しい人生が始まったという現実を直視することを逃れる。

その時からごまかしの人生は始まっている。

野菜は、育てるときには生き物と認識しているが、畑からもぎ取るときには、生き物であることを忘れ、平気で殺す。

肉は、きれいにスライスされたものを買い、調味料を用い、きれいに飾りつけられることによって、動物を殺して食べているという罪悪感から逃れる。

シートベルトをしていなければ事故に遭ったとき怪我をする確率が高いから、とシートベルトをして怪我をする確率を減らして安心する。

決して運転中に死ぬ確率が0になることはないのに確率が減っただけで安心する。

長く生きるのも運命。短く生きるのも運命。

人はいつか100%死ぬということがわかっていない。

人は100%の未来を理解できない。

わかってないからじたばたする。

人生とは「じたばた」することである。

じたばたすることはきっとおもしろいのだろう。

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じたばた
(副)スル

(1)手足をむやみに動かして抵抗するさま。ばたばた。
「―(と)もがく」「―すると殺してしまうぞ」

(2)(現状から逃れようとして)あわてふためくさま。
「いまさら―してもはじまらない」

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人が死ぬことは100%決まっているのだから、

一生懸命に何かをすることは全て「じたばた」することと同じである。

じたばたすることの意味、じたばたすることの価値は、

じたばたすることによって「自力で問題を解決した。自力で困難に打ち勝った。」

という満足感を得ることができる。

本当は自分の力など関係なく、ただ運が良かっただけでも、

ただ単に運が良かっただけだと気付くことなく「頑張ったからできたんだ。」と満足感に浸ることができる。

じたばたしなくても結果は同じであるにも関わらず、じたばたしなければ得られない満足感というものがある。

満足感を得ることによって、幸福を感じることができる。

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