宇宙の果て、宇宙の大きさ

宇宙全体の形状、大きさの動画

宇宙の果て、大きさを考えるとき、我々は、つい無意識のうちに3次元的な宇宙の果て、大きさを考えてしまいます。

そして、いつまで経っても、誰もが理解できて納得のいく結論に到達しない。というドツボにはまります。

しかし宇宙の果て、大きさを考えるには時間も考慮しなくてはなりません。

時間を考慮した宇宙とは何でしょうか?

夜空を見上げて見える宇宙は過去の宇宙です。

夜空に向けて光を放つとき、その先にあるものは未来の宇宙です。

我々人間が認識できる宇宙とは過去の宇宙だけです。

現在の宇宙とは「観測者自身」。それだけです。

我々が影響を与えることのできる宇宙とは未来の宇宙だけです。

宇宙の果て、宇宙の大きさを考えるときは、過去の宇宙と未来の宇宙を分けて考えなくてはなりません。

過去と未来は同じ土俵で論じられるものではありません。

過去の宇宙の果ては、最も遠い光源が過去の宇宙の果てになり、現在のところ138億光年程度と言われています。

未来の宇宙の果ては、私が生きている間に光を送り、そこから光が戻ってくることができる距離です。54歳の私の場合ですと、どんなに頑張っても100
÷2=50光年が限界でしょう。

よって、

過去の宇宙の大きさは、半径138億光年の球。

未来の宇宙の大きさは、半径50光年の球。

となります。

過去の宇宙は、年々大きくなります。それに引き換え、未来の宇宙は、年々小さくなります。

どんどん小さくなる未来の宇宙の果てに向けて、消えてしまう前に、出来るだけ多くの何かを発信したいものです。

ここで、人間が五感(+観測機器)で感じることが可能な範囲を「宇宙」と定義します。

人は普通「過去の宇宙」を見て「これが現在の宇宙だ」と誤解します。

そして誤解した「現在の宇宙」の広さを見て「未来の宇宙も同様に広い」「未来の宇宙は無限だ」と更に誤解します。

しかし、残念ながら実際の未来の宇宙の広さは「
余命÷2(光年)の球」の広さしかありません。

ここで誤解しないでもらいたいのですが「余命=決まっているもの」ではなく「余命=未知なるもの」であり、その数字を100億にするのも無限にするのも宗教の範疇であり、個人の自由です。

過去の宇宙の外=未来の宇宙の外=空想の世界=宗教の範疇=個人の自由と考えます。

過去の宇宙の広さは【半径138億光年の球】

過去の宇宙の果ての外=宇宙が始まる前=宗教の範疇=個人の自由

未来の宇宙の広さは【半径「余命」÷2[光年]の球】

余命=未知なるもの=宗教の範疇=個人の自由

∴未来の宇宙の広さ、未来の宇宙の果ては個人の自由。

さて、宇宙の果て、宇宙の広さについてご理解頂いたところで、次の説に進みたいと思います。

「宇宙は人の数だけ存在し、それがあたかも1つの宇宙であるかのごとくつながっている。」

天動説とは何でしょう?

地動説とは何でしょう?

天動説とは地球を絶対静止系として、全ての物の動きを説明することです。

地動説とは複数の天体の重心を絶対静止系として、複数の天体の動きを説明することです。

地動説では月の動きを説明するときには地球と月の重心を絶対静止系として計算します。

地動説では太陽系の惑星の動きを説明するときには太陽系全体の重心を絶対静止系として計算します。

地動説では銀河系の中の太陽の動きを説明するときには銀河の重心を絶対静止系として計算します。

地動説では銀河団の中の銀河系の動きを説明するときには銀河団の重心を絶対静止系として計算します。

『天動説で太陽系の惑星の運行を説明すると非常に複雑な式になる。しかし、地動説を用いると太陽系の惑星の運行を簡単に説明できる。ゆえに、天動説よりも地動説の方が実用的だ。』

ところが、地動説では宇宙全体の動きを説明するときには絶対静止系とすべき重心が存在しないため説明がつきません。

天動説では宇宙全体の動きを説明するときには観測者を絶対静止系とするため説明が可能です。

『A理論ではX問題は説明できない。しかし、B理論を用いるとX問題を説明できる。ゆえに、A理論よりもB理論のほうが正しい』

『地動説では宇宙全体の動きは説明できない。しかし、天動説を用いると宇宙全体の動きを説明可能。ゆえに、地動説よりも天動説の方が正しい』

地動説はある集団の動きを考えるときに、その集団の重心を絶対静止系として、集団に属するものの動きを考えていく思想です。

天動説は全てのものの動きを考えるときに、自分から見えるもの全ての重心を絶対静止系として、全てのものの動きを考えていく思想です。

地動説、天動説というよりはむしろ、地動思想、天動思想と呼ぶ方がふさわしいかもしれません。

地動思想、天動思想を人間関係にあてはめてみましょう。

地動思想による考え方は、一見他人のことをしっかり考慮した客観的な考え方のように見えますが、その集団を一歩はみ出した人のことは完全に無視した独善的な考え方に陥りやすいということは明白です。

家族のことを大事にし、家族のことばかり考える人は、家族以外の人に対してとてつもなく非常識な行動に出ます。

会社のことを大事にし、会社のことばかり考える人は、会社以外の人に対して(公害を撒き散らすなど)とてつもなく非常識な行動に出ます。

日本のことを大事にし、日本のことばかり考える人は、日本以外の人に対して(戦争をしかけるなど)とてつもなく非常識な行動に出ます。

天動思想は(TV、新聞、インターネット、Youtubeを含む)自分から見える全ての人を考慮した考え方なので、地球に住む全ての人のことをちゃんと考えた思いやりのある行動に出ることが出来ます。

人間関係においても、地動思想の方が実用的で現実的ですが、実は天動思想の方が正しいということになります。

「科学とキリスト教の歴史」

次にこちらのテーマで語ります。

キリストは当時の権力者達の迫害に合い十字架に張り付けられて殺されました。

その後、キリストの人生を神格化した人達の手によってキリスト教が広まっていきました。

キリスト教が広まるにつれ、科学的な研究により人間の直感に反することを言う人達は「魔女狩り」やガリレオガリレイの「それでも地球は回っている」に代表されるようにキリスト者によって迫害される時代が長く続きました。

世界の三大宗教と呼ばれる「キリスト教」「仏教」「イスラム教」は現在でこそお互いに認め合い、尊重するようになってきましたが、人類の歴史を振り返ると、宗教論争を起点として戦争が勃発し、殺しあう歴史が大半を占めるように思います。

キリスト教の聖書の最初のページを開くと「初めに、神は天地を創造された。…『光あれ』…」から始まります。そして植物、動物をお造りになり、アダムとイブをお造りになり全ての人類の祖先はアダムとイブであると説いています。

この創造説に異を唱えたのが、ダーウィンの「進化論」です。ダーウィンはキリスト者によって迫害されることこそなかったものの、現代でもしばしば「あなたは創造説を信じますか?進化論を信じますか?」と二分されどちらかが正しく、どちらかは間違っているとの立場の選択を迫られます。

大概の日本人は戦後の教育により「進化論が正しい創造説は間違っている」と答えると思います。

しかし、驚くことに日本より遥かに科学が進歩しているアメリカにおいて、そのアンケートを取ると「私は創造説を信じてるわ。進化論は間違いよ。」と答える人の方が多数派です。この辺りが日本では常識だと思われていることが世界で通用しない根本原因の一つでもあるかなと思います。

ちなみに私(0歳のときにカトリックの洗礼を受け、日本の教育で科学を学んだ者)の立場からすると、どちらも融合した考え方に行きつきます。聖書の最初の2ページをちゃんと読むと神はいきなりアダムとイブを造られたのではありません。ちゃんと植物を先に造り、動物を造り、順を追って人類を創造しています。これを進化論と融合すると「神の意志によって人類を造るために生物が進化してきた。」と解釈することが出来ます。進化論か創造説のどちらが正しいのか?という質問自体が愚問だということです。

順番が前後しましたが、宇宙の始まりと創造説について考えます。現代の日本人の間では常識となりつつある「ビッグバン理論」=宇宙は無(わずかな点)から始まってどんどん広がっていき現在の姿になったという理論。ビッグバン理論が出て来た発端は「ハッブルの法則」というもので、概要としては「遠い銀河程速い速度で遠ざかっている」という観測事実があります。この観測事実に基づき、時間をさかのぼって考えると宇宙は点から始まったという結論に達します。確か「ホーキング宇宙を語る」という本に記載されていたと記憶していますが、ホーキングがバチカン市国に呼ばれ、ローマ教皇にビッグバン理論を説明しに行ったとき、ホーキングは「『魔女狩り』のように火あぶりにされるんじゃないか?」と恐れ恐れ行ったと言っています。

キリスト教(カトリック)はビッグバン理論を否定するどころか大歓迎で喜びました。「やはり創造説に書いてあったことは正しい!神が初めに『光あれ』と言って宇宙を創造されたのだ!」と大喜びしました。

現在の物理学では、その「光あれ」を否定しようと躍起になって「量子力学が説明するところの無の揺らぎから宇宙は産まれた。」と説明しています。

この意味不明な言葉を簡単に説明すると「『0』を『1』と『−1』に分けると『1』が出てくるよね?」というような発想です。この解釈からすると我々の宇宙とは別のパラレルワールドとして「反物質」で出来た世界が存在するという解釈になります。

さて、ここで出て来た「量子力学」という難解な力学について簡単に説明すると量子力学は「不確定性原理」というものに支えられています。

これは「原理」なので動かしようがないし、絶対に間違っていません。

「不確定性原理」を物凄く簡単に説明すると「量子の動きは決定論的に決まった計算式では求められない。確率論的にある動きをする確率を求めることが出来るだけである。」というものです。物凄く簡単に説明したつもりですが、端折り過ぎて逆にわかりにくいとお考えの方はこちらをご覧ください。

不確定性原理

この「不確定性原理」「量子力学」について「相対性理論」で有名なアインシュタインは「神はサイコロをふらない」と言って猛反発しました。

この「神はサイコロをふらない」はTVドラマのタイトルにもなり「神はサイコロをふらない」が真実であるかのごとく語られていますが、アインシュタインの言ったこの言葉は、現在の物理学では常識中の常識である「不確定性原理」と「量子力学」を否定する言葉であり、物理学的には「神はサイコロをふる」が正解となります。

さて、ここで、天才アインシュタインの犯した間違いについて検証してみましょう。

サイコロの目は人間が通常の人間にとっては予測不能なものです。だからサイコロを使って、すごろくを公平に進めたり、有利不利のない丁半博打に使われたりします。その応用がロト6やロト7などの宝くじにも使われています。でもサイコロの目にしろ、ロト6やロト7の数字にしろ、とてつもない量の物理学的な計算をちゃんとすれば決定論的に確定することが出来ますよね?神にはそんなことすらお見通しです。

少し話は脱線しますが、ミニロトとロト6とロト7を「科学的に検証し、科学的根拠に基づいたロト専用アプリ」がこちらになります。

ロト6、ロト7、科学的攻略法

そこに「神の意志」を加えたアプリがこちらになります。

この2つのアプリは、そこら辺に転がっているデタラメな「嘘の統計データ」や「嘘の理論」に基づいたデタラメなアプリとは全く違います。本当に科学的な検証を何度も何度も重ねた結果、完成した科学的根拠に基づいた本物のアプリです。

さて、話は戻って、アインシュタインの勘違いは「神の業は全て人間に理解可能な数式として説明できる」と考えたところにあります。そのため量子の動きを説明する数式が「単なる確率論でしか表現できない。人間にはこれが限界だ。」という事実を受け入れることが出来なかったところにあります。そして出て来た言葉が「神はサイコロをふらない」になります。

さて、この「不確定性原理」を神の目で見るとどうでしょうか?神にとっても未来は予測不能な確率論でしかないのでしょうか?答えは否だと思います。神は人知を超えた存在ですから、人間の限界を超えて神にとっては不確定性原理すらも超越し「全てのことは神の思し召し」「未来永劫神の思うまま」「量子の動きにも神にはわかっているけれど、人間にはわからないように造られた。」と解釈することが出来ます。

次に五次元の話をします。通常空間三次元、時間一次元、合わせて「四次元の時空」が現在のまともな教育を受けた日本人の常識かと思います。

ただ、まともな教育を受けていない人、小、中、高と真面目に勉強してこなかった人にとっては「三次元」で止まっており「四次元は異次元世界」という解釈をしてスピリチュアルとか新興宗教に走っている人が少なくありません。その人達にとっての五次元とは天界であったり次元が増えるごとに魂のランクが上がっていくなどという意味不明な話に持っていきます。

一応、物理学をまあまあ、まともに学んだ者としては物理学的には五次元の世界は数式で表せることを知っています。

五次元どころか「世界は11次元だ」という「超ひも理論」が物理学の世界では一般常識だったりします。

さらに研究を進めた人によると「世界は26次元だ」として頑張って数式的に矛盾なく説明している人もいます。

でも、その人達がやっていることは結局のところ不確定性原理、量子力学を受け入れることが出来なかったアインシュタインと同じ勘違いをしているに過ぎません。

万物の作り主、全てを超越した「神の世界」がどうして11次元とか26次元とかの中途半端な有限の世界に留まる必要があるのでしょうか?

神の世界は「無限次元をも超越した人知の及ばない世界」これが今の私の解釈です。

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