ペルー初出張物語

初出張の条件?遊んでくること

あれは入社3年目の12月のこと、私は今や日本大使館人質事件で有名な南米のぺルーにはじめて出張することになった。当時、ペルーはテロ活動が今よりもっと激しく治安もひどかった。政権末期であったため、当時のガルシア大統領は大金を着服することしか考えていなかったのだ。(そういえば、フジモリ元大統領も着服しているとの疑いがかけられているな。)当時は一回6年しか大統領になれない制度で大統領ほど特権が許されている任務はペルーにはなかったから、そうなるのだろう。そんな国へ、当時の会社の人事部は女性である私を単独で出張させることに反対した。だが、課長が以下のようなことを本人(私)に言い聞かせるという条件書を提出することで出張を許された。

1)バッグを必ずたすきがけにしてしっかりと手に握ること
2)昼も夜も単独で町中を歩き回らないこと
3)知らない人にたやすく近づかないこと
 
しかし、課長は言い聞かせるどころか、そんな条件書があることすら私に知らせなかった。
今思えば、そんなことを言い含める状態に、私はなかったからなのだろう。
私は仕事を達成しなければ、ということで頭一杯で、テロのことなんて全く気付いていなかった。
あまりにも、出張の準備にあせりまくり、書類をもっておろおろする私をみて、上司はなんと、こう言った。
 
「まあ、遊ぶつもりでいってくんだなあ。」
 
私はその言葉を真に受けた。
 
「えっ、本当に遊んできていいのですか?」
 
上司は私がまともに聞いているとも思わず、「ああ、そうだ」と言った。
 
そうかあ、なあんだ、遊んでくればいいのね。
とはいえ、出張っていえば仕事だよ、仕事が大事、課長ったら何言ってるのよ。
でも、遊んで来いって言ったよね。
うん、言った。うんうん。
 
無知な勘違い人間は恐ろしい。
課長は私をリラックスさせるために「遊んで来い」と言ってみただけなのに。
その一言で、私はテロ真っ只中の国へ仕事の合間に”必ず”遊ぶぞと心決めたのであった。
それがのちのちばかすか言われる羽目になるなんて予想できなかった。

カナダで一泊

翌日、先輩諸氏に任された大事な出張書類が入った2箱のダンボールと大きなスーツケースを持って、私はカナディアン航空便で飛び立った。最悪な便だった。というのも、当時、ペルーに行く便は早朝5時もしくは夜中の1時に到着するカナディアン航空かブラジル・ヴァリグ航空のいずれしかなかった。それも、便そのものが少なかった。ましてや、クリスマスに近い。日本から一時帰国する中南米の出稼ぎ労働者でほとんどの便は満杯だったのだ。だから私は総計27時間もかかる、カナダの東側にあるとトロント空港乗り換えペルー・リマ空港に早朝5時到着のカナディアン航空便に乗るしかなかった。ただでさえ、太平洋を超えるだけで時差があってしんどいのに、なぜか北米大陸の北東はずれの真冬のトロントまで行ってそこから、飛行機を乗り換えて、斜めに下降し、南米大陸の西のはずれにある真夏のリマにいくというのだ。だれがそんなルートを考えたんだ!と怒ったが、それしかないのだから仕方がない。だが、最悪だったのはそれだけではない。

成田からトロントに着くまではビジネスクラスだったので足乗せ付きの幅広い席でゆったりと、かつ、楽しく過ごせた。隣の席に座る背高のっぽの米国人のおっさんが、なんで私ごとき、ちびで、決して利口そうにみえないうら若き日本女性(いや少女)がリマなんてへんぴなところにそれもビジネスで行くのだと興味を抱いたらしく、しつこく声をかけてきてくれたからだ。聞いてみたらおっさんはどこかの中小企業の社長だという。確かに入社3年目の初出張の日本人女性がビジネスクラスの席に社長と隣り合わせに座っているのは奇異に見えるかもしれない、と思った。ましてや、当時の外国人には、日本女性は着物を着てつつましく男性の3歩後ろについている、という認識ぐらいしかなかったから。そうこうしているうちに、トロントに着いたのは夜中の3時。何もすることがないから、がら空きの空港ロビーの席に座って、ダンボール箱に入れずにあらかじめバッグに入れておいた大切な出張書類の一式とパスポートと財布を胸にしっかりと抱いて二時間ほどうとうとした。それにしても空港内は寒かった。でもリマに行く飛行機に乗り換える時間がそうなっているんだから仕方ない。

そして、ようやく、リマ行きのカナディアン航空便に乗って離陸して10数分たっただろうか。
やれやれ、あともう一息で到着だと安心して寝ようとしたとき、ボンってという音がした。
ん?
私はそのとき、飛行機の翼の近くに座っていた。
まさかよねえ、と思ったら、機長からのアナウンスが静かに流れた。
「片側の翼のエンジンンが火を吹いたので、トロントに戻ります」
えええっ。それは大問題ではないか。私は翼に近いところに座っているのよお。
私は御巣鷹山の日航機が墜落していく様をとっさに想像し、ペンを握り締めた。
妙に静かで緊張の糸が張ったような雰囲気の中、それでも、なんとか、飛行機は無事に空港に到着したのだった。
(後日知ったことだが、飛行機はエンジン一つが壊れたぐらいではおちないそうだ。う〜ん。)
しかし、それからが問題。

カナディアン航空の受け付けカウンターにどやどや集まった私達、乗客に対して、あたりまえのような顔をして金髪のお兄さんはこう言ったのだ。

「代わりの飛行機はいつ飛ぶか今のところわかりません。その飛行機に乗る方には今晩のホテルを手配します」

えっ何〜(と思ったのは私だけではなかった。)

以下、あんちゃんと私を含む乗客との会話(括弧は私の声)

乗客「困るんだよなあ。仕事の日程があるんだからさ。大体でいいからいつ飛ぶのか教えてくれよ。」

(そうだ、そうだ、私はまさに仕事、それも期日(締切)ぎりぎりの仕事なんだから。)

あんちゃん「わからないものはわかりません。ただ時間はかかりそうです。」

乗客「だったら、荷物返してくれよ。リマに行くつもりでいたんだから薄着なんだ。」 

(そうだ、こんな寒いトロントで薄着でなんかいられない!)

あんちゃん「それはできかねます。今から手配するホテルにそのまま行って下さい。」

乗客「そりゃないだろう。手ぶらでホテルにいつになるのかわからないままじっとしていろと言うのか!」

(そうだ、そうだ!)

あんちゃん「そうです。とにかく、代りの便に乗る方は常時ホテルて待機していてください。」

もう、こうなると、ラテン系民族(ほとんどペルー人)は我慢できない。いや、アジア系もラテン系もへったくれもない。
共通の怒りで結束力が硬い。みな、あんちゃんに詰め寄って、せめて荷物ぐらいは出せと大騒ぎ。でも20分たっても動じないあんちゃん。私は隣にいあわせたペルー人で留学先のカナダから一時帰国するという女子学生と顔を見合わせて、無理そうだから私達はあんちゃんに従おうってことにした。後にホテルの食堂でハンバーガーにぱくつきながら、お互いの身の上を語りあったのだが、その亜麻色の長い髪の子のお母さんはカナダの白人でお父さんはペルーの混血の人だという。離婚しているのでカナダとペルーを行き来しているのだそうだ。そして、今回はお父さんとペルーでクリスマスを過ごす予定だと言った。父がもうこの世にいなかった私にはうらやましいようなでも悲しいことのように思われた。そして、事故の最中でもしっかりと赤の他人と仲良しになれる自分が面白いと、ふと思った。
 
早速、私達は航空会社が用意してくれたホテルに直行した。真冬のカナダの町は雪で真っ白だった。まあ、これなら、ホテルのこと、暖房完備ぐらいはしているから薄着でも大丈夫よね、と思った。が、そうはいかなかった。友人と夕食を共にして別れてから、割り当てられた部屋に入ったのだが、寒い。暖房のスイッチを入れてもいっこうに暖かくならない。フロントに「私の部屋の暖房が効いていないので部屋を替えてくれ」と言いに行ったらナンと「我慢してくれ」って言うではないか。うっそ〜。なんで、真冬のトロントになんか用がないのに薄着で一夜(なのかもどうかもわからない)を寒い思いをして過ごさなければならないのよ。でも、もう私にはけんかを売る余力はなかった。冷たい部屋に戻って、毛布にくるまってじっとしていて、あることを思い出した。

いけない!リマの現地スタッフは早朝5時着にあわせて空港に待っているかもしれないのだ。待ちぼうけをくらうのは誰でも嫌なはず。でも、どうしたらいいんだ。リマのスタッフの自宅の電話番号まで控えていない。う〜んと考えて、とにかく東京の会社に私は電話して、事の次第を先輩に話した。そしたら、先輩笑うではないか。

「そうか、そうか、トロントかあ。遊ぶにしてはいいところとはいえないよなあ。ん?薄着で困っているのか。でも、大丈夫だよ。お前なら風邪ひかないよ。」

私は最後の言葉にカチンときた。なにをもってして、大丈夫だというのだ。少しはかわいそうに思ってくれてもいいじゃないか。でも、その先輩の言葉のおかげで、こん畜生、石にかじりついてでもがんばってやる」と発奮したのは確かである。それで、どうしたかっていうと、とにかく一晩寒いベッドで寝た。

翌朝、航空会社がくれた朝食券でごはんをこれでもかというぐらいにゆっくりと食べた。読むのが面倒な英字新聞を斜めに眺めた。クロスワードまで英語なんだもんな。ペルー人の女子学生はどうしているのか、と思ってフロントに尋ねてみたが、部屋にいないとのこと。飛行機も夕方何時だからわからないがまだ飛ばないらしかった。何をしていればいいんだ。面白くない。外は雪がしんしんと降っていた。それを眺めていたら先輩の言葉が浮んだ。「トロントかあ。遊ぶにしてはいいところとはいえないなあ。」そうだ!せっかくカナダに来たのも何かのご縁だ。逆に遊んでやろうではないか。ってなわけで、じっとしていろと言った金髪のあんちゃんの言葉忘れて、フロントのあんちゃんに、ホテル近くに何か面白いものはないか、と尋ねて、ああでもない、こうでもないと議論した結果、近くのカナダの伝統を伝える1800年代の屋敷を訪ねることにした。お金を少しカナダドルに換金して雪の降る中、タクシーを捕まえて飛び乗った。えらく機嫌のいい運転手だった。

「何しにここへ日本からきたんだい?」

「いやあ、ほんとはペルーにいくんだけど飛行機が事故ってね、ホテルにいても面白くないから代りの飛行機の

待ち時間をこうして楽しんでいるのよ」

「ふ〜ん。カナダは何もないだろう。日本みたいに経済が発展しているわけでもないしさ。ところで、俺、最近、家買ったんだけど、日本って土地が高いらしいと聞いているけど本当か?」

「ほんと、ほんと、高いよ〜。みんな狭いところに住んでいるのよ」

といって、私は価格をドルで言ってみた。

「えええええ!うっそだろう」と運転手は思わずハンドルから手を放した。

ばか!そんなところで手を離したら雪でスリップするじゃないか。

しかし、ばかだったのは私の方だった。

慣れない英語。タクシーから降りてわかったのだが、私は円とドルの換算を間違えて一桁多くドルの数字を言ったようなのだ。あれから、あの運転手はあちこちに日本の土地の高騰ぶりを周りに教えているのだろうなあ。間違った日本紹介をしてしまった。屋敷は大して面白くなかった。日本でいうところの明治村みたいなものだった。先生に引率された小学生とおぼしき軍団が、先生の村説明そっちのけで、私を眺めながら、何してるんだろう、こんなところで大人の東洋人が・・・とひそひそと話していた。ふん、私は日加親善してやってるんだ、とそいつらを見返して、又、タクシーをひろってホテルに戻った。そしたら、「君、早くしないと飛行機に乗り遅れるよ」と屋敷訪問をいっしょに考えてくれたフロントのお兄さんに言われた。これだから嫌なんだよっとお兄さんにめくばせしながら、私は慌てて大事な書類とパスポートと財布をを握り締めて空港へと急いだ。こうして、午後4時を回った頃、リマに向けてようやくカナディアン航空便はトロントを飛び立ったのである。

リマは怖い

リマ空港に着いたとき、時計は夜中一時を過ぎていた。私は小さくてがら空きの空港の薄暗いオレンジ色の電灯の中を重いスーツケース、バッグそしてダンボール箱をカートに載せて引っ張りながら、税関までやってきた。パスポートをバッグから引っ張り出そうとする私を制止してペルー税関のおじさんは親指を横にして、あっちへいけというポーズをとった。要は顔パスである。こんなのでいいのか不安になった。というのも、以前フィジーを旅行した際に私は税関のおじさんに何かくれないと通してやらないというポーズをされたことがあり、そのときは持ち合わせがなかったので小さなプラモデルのキットをあげた。だから、いつでもそういうおねだりに応じられるようにと、今回、私は会社の宣伝用品をスーツケースにしこたましのばせてあった。通関を終えて空港のロビーに出た途端、世界はひっくりかえった。夜中でロビーは真っ暗だというのに子供がわんさかいるのだ。大人も沢山いたが、なぜこんな時間帯に小学生ぐらいの子供たちが空港にいるのだろう。手があちこちから差し出されてもみくちゃにされた。盛んに子供達は言った。

「xxソルで荷物もってあげるよ」
「xxソルでホテルまで送ってあげるよ」
「xxソルでキャンディ売るよ」

私は本能的に危険を感じて、バッグとスーツケースとダンボール箱を抱え込んだ。確か先輩に言われたはず。絶対に他人に持ち物を明渡すなよって。でも、どこに他人でないとわかる現地人スタッフはいるんだ?と思ったら、手を振っている色白で白髪の男性がいた。私は写真を持ち合わせていなかったが、きっとあれがスタッフだろうと思った。なんでわかったかというとそこら辺にいるペルー人はみな黒かったからだ。大多数の貧民と少数のそうでない者との違い即座に色分けできたからだ。色白の現地人スタッフは私の大きな荷物を半ば取り上げるようにして私に離れるなと身振りで合図した。相変わらずもみくちゃにされながらも必死にバッグを握り締めてスタッフについてゆき、やっとの思いで外に出た。外も子供で溢れ返っていた。そして、いつまでも私達の後を追いかけてくる。逃げるようにしてスタッフの用意してくれた車に飛び乗った。車に乗るなりスタッフは言った。

「運転中は絶対に声をかけないでくれ」
「はあ」

ナンだかよくわからないが、ひたすら真剣なまなざしで前方を直視して運転するスタッフの顔と外の暗闇を比べながら、私は押し黙っていた。だんだん車のスピードぽが上がって、外の風景がみえるようになってきてから私はあることに気がついた。彼は赤信号があっても止まるどころか猛スピードで車を走らせるのだ。確かに日本でも真夜中、信号無視してとばす運転手がいるが、彼のそれは尋常でなかった。明らかにわたろうとしている人影があっても止まらない。なんだこりゃと思った。でもしゃべるなと言われていたもんだから聞けない。外の風景も異様である。白いコンクリート(?)ブロックで囲ってあるだけの天井のない小屋ばかりが林立しているのだ。まるで作りかけの家ばかり。本当に人が住んでいるのだろうか。雨が降ったらどうするのだろう?と内心つぶやいていた。そうして小一時間しただろうか、ようやく空港と同じくぼんやりとしたオレンジ色の町の灯りらしきものがちらほら見え始めたかと思うと、古きよきヨーロッパ風の石造りの建物群に突入し、次に成城か芦屋かとおぼしき緑に囲まれた高級住宅街に入って、車はようやく止まった。

そこで私はそれまでたまりにたまっていた質問をスタッフに浴びせかけた。車のハンドルから手をはずひ緊張の糸がほどけたような顔をしながらスタッフは答えてくれた。私が到着する1週間前、某ヨーロッパ(国名忘れた)の航空会社のパイロットとスチュワーデスの一行が乗ったマイクロバスが、すい先ほど通った道すがらで、強盗に教われ、言葉どおり、身包みはがされて(つまりレイプも含む)殺された事件があったそうなのだ。それも、強盗のやり口というのが、一人が酔っ払いを装って道路をふらふら渡っているところに、それに驚き、急ブレーキをかけて止まった車を、待ってましたとばかりに、隠れていたほかの一味が出てきて襲ったというのだ。話によれば、このやり口は強盗の常套手段で(今もそうなのかどうかわからないが)、ペルー人の間では、ひき殺してもいいから、そういう人影を見ても絶対車を止めるものではない、というのが、当たり前のことなのだそうだ。どうせ、強盗団をやるような貧民は生命保険をかけていないし、殺したとしても損害賠償額は対したものではないとも言われた。だからスタッフはあんなに緊張していたのか。私、女だしね。「xx会社日本人女性社員ペルーにてレイプされて殺害される」なんて記事は会社は嫌だろうし、私も嫌だ。でも、そんなにペルー人の人間の価値は低いものなのか、と同じ人間として悲しくも感じた。そして、天井のない家々は貧民街(スラム)なのだった。実際、ペルー・リマ市あたりは乾燥地帯で年間雨量が少なく、天井がなくても大丈夫なんだそうな。いいのかわるいのかよくわからない。なんだか、その話を聞いて私もどっと疲れてしまった。

ペンションのおじさん達

私が二週間泊まる宿は日本人ご用達のペンションのひとつだった。人のお宅にお邪魔させてもらうような感じで、緑のつたが絡まる門をくぐりぬけ白い壁にどっしりとした木目の玄関の扉をあけて入ると、なるほど日本のペンションのように1階が家族だんらんのようなホールになっていて木目の階段があって、2階にいくつかの個室が並んでいた。日系人の家主のおばさんは台所と風呂場と電話の説明をしてくれた。

台所は広くて、真中にビニールカバーのかかった白くて大きな長方形のテーブルがあり、それを囲むようにして電子レンジ、冷蔵庫、コーヒーポット台などが所狭しと並んでいた。私はこういってはなんだが当時まだ電子レンジの使い方を知らなかった。ましてやはるかかなたのペルーで知ることになるとは。だから、おばさんの操作説明に一生懸命い聞き入ったのを覚えている。
冷蔵庫は、ほとんど中が空っぽだったが、おばさんが、勝手に中のものを取ってはダメですよと言ったので首を傾げてしまった。
コーヒーポットの使い方の説明は面白かった。大きなNESCAFEという文字入りの粉コーヒーとお湯のポットの使い方はいうまでもなかったが、その隣にもうひとつ、コーヒーを煮詰めたように黒くどろっとした液体の入ったガラスポットがおいてあった。おばさんは言った。

「その液体にお湯を混ぜて飲むのよ」

「へ?NESCAFEとどう違うの?」

「この液体はぐたぐたとあら引きのコーヒー豆を煮込んだものを漉したものなの」

なんでそんなことするの?で、どっちがどうおいしいのか?と聞きたかった。

でも私の疑問はおばさんには通じないような気がしたのでやめた。

あとでわかったのだが、当時のペルーの人にとってはNESCAFEはそっちの液体より文化的(要はハイカラ)
なものだったらしい。実際、外のお店に行っても、コーヒーをくれっていうと、どっちがいいかと聞かれ、NESCAFEを頼むと、日本でもおなじみの黒い蓋のついたNESCAFEのビンとお湯が入ったポットと殻のカップが出された。自分でやれっていうのか?と日本人は思うだろうが、ペルー人にとってはそうやって自分でつくることでハイカラな気分になってったらしい。
 
次に風呂場の説明。風呂場の造りはペンキ塗り壁にちょこんとシャワーがついているだけのものだった。それもお湯が出ることはほとんどないし、水さえも出ないときがある、と言われた。それでも風呂場なんだろうか?
年間雨量が少ないから仕方ないか(そして私がペルーに到着した頃はちょうど乾季でもあったから)と
思ったが、さむ〜いトロントから来たばかりの私には、お湯が出ないというのはなんともさびしかった。
結局、私はそれから二週間その風呂場を使うことは一度もなかった。
別に他の住居人と奪い合いをして負けたわけではない。私はトロントのせいで風邪をひいてしまって使う機会がなかったのだ。
おばさんはそれから電話の使い方を教えてくれた。
「使ったらXX分でXXドル(現地通貨のソルではない)払うこと」
当時その料金の高さに驚いたのは覚えているがいくらだったかは忘れた。どうせ会社の金なんだから、と思いつつも東京の職場に国際電話をしたとき、いつもより口調が速かったような覚えがある。

そして、おばさんんは部屋まで案内すると、あとはご勝手に、といって去った。

部屋の中はこぎれいだった。荷物をちょっとだけ解いて、ベッドでため息をついて、風邪で熱っぽい額をたたいて、また下に降りて行った。

さっきからきになっていたことがあるのだ。そう、住居人の目。挨拶して自己紹介しないと、このペンションで他の住居人と仲良く暮らせないのだ。これでも恥らう乙女、おじさんばっかりでどうやって2週間、女一人でがんばろうかと考えてしまった。でもおずおずと話しをしてみるとおじさんたちはみなおもしろい人ばかりだった。
まあ、紅一点でそのペンションに泊まるはじめての女性社員だったらしいから興味津々だったのでもあろう。
私のつたない自己紹介を熱心に聞いてくれた。国際協力事業団の専門家だの、考古学者だの、昆虫採集の学者だの、私のようなメーカーの技術者だの、旅行会社の出張者だの色とりどりで、私の方も熱心に彼らの紹介を聞いた。

しかし、紹介を聞いているうちに私の頭はだんだん熱のせいかぼやけてきた。そこで「風邪で頭がふらふらなので誰か薬をもっていらっしゃる方はいないか」と尋ねたら、ひとりのおじさんが言った。

「薬なんかないよ。風呂も水ばっかしだから入るのやめときな。ここペルーで風邪を治すにはこれが一番なんだよ」

他のおじさんたちはにやにやしていた。

そう言ったおじさんはなにやらホールから持ってきた。無色透明な液体の入った酒瓶とガラスのコップ。

「これはね、ぶどうからつくった蒸留酒なんだよ。これを飲んでぐっすり寝れば熱なんて吹っ飛ぶよ」

「本当?」

みんなうなずいた。「それも一気に飲むんだよ」とおじさんは言った。

素直に私は「それじゃあ」といってコップに並々とつがれたその液体に鼻を近づけた。臭くなかった。
一気に飲み干せたと思ったら、いつのまにか後ろに立っていたひとりのおじさんがぐっと私の頭をつかんで
おもいきり左右に振った。きんこんか〜んこん(と頭が鳴ったと思う。)喉からじわああああと広がるものすごい熱さ。火を吹くかと思った。
これが、ペルーの有名な焼酎、PISCOの初体験であった。
人のいいおじさんたちはげらげらと笑いながら「お休み!」と言ってくれた。
このおかげかどうかわからないが、確かに翌日、熱はさがった。

仕事は踊りながら

(つづく)

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