仕事のページ

私は仕事というものをはじめてかれこれ10年以上になる。(20年には残念ながら未達。)
挙句の果てにはワーキングマザーなんてやってる。
一日の約3分の1は仕事である。いろんなことがあって当たり前だろう。
遊んでつくっているホームページになんで仕事の話なんか載せるんだと
思われるかもしれない。確かに仕事の具体的な内容に触れることは
規則違反なのでできないが、それらにかかわる珍事については
語ってもいいのではないかと思って載せることにした。
読まれる方によっては、自分にだぶらせる方もいるだろう。
また、ある人にとっては、新鮮な内容に感じるかもしれない。
コメントを残して行ってもらえれば幸いだ。

ぺるー初出張物語は長いので こちら へ

◆うかっちゃったよ◆
 
私が仕事についたのはかれこれ10数年前、バブル絶頂期である。
実を言うと私ははじめ仕事につく予定になかった。
アメリカの大学院にでも行って・・・なんて留学を夢見ていた。
でも、父が亡くなってしまったので仕事を選びざるを得なかった。
それでも、就職ができなかったら留学するぞとひそかに思っていた。
だから、ことごとく、公務員試験、希望した銀行の面接に落ちたときは、
まじに腐って、留学の資料を集め出していた。
ある銀行の人事の人に噛みついたら、
「あんたはこの業界向きじゃない」とまで言われてたから、もう宛はないと思ってた。
そんなさなか、大学の学生食堂で、早々に希望の会社に就職が決まった友達に言われた。
「私さ、受からなかったら、ここ受けようと思っていたんだけど、かわりに受けない?違う業界もいいわよ」
と、とあるメーカーの案内のカタログを差し出した。
私は、スペイン語を専攻していたので、その会社がそういう言語が使えるところかチェックした。
そしたら、組織図に中南米部って、書いてあるじゃないか。
せっかくだから、受けて見ようか。もう落ちるのは慣れっこだ。
というわけで、開き直りで、そのメーカ−を受けた。
人事の人に「スペイン語できるんですよね〜。じゃあ、話してもらおうかな、いや、いいや。上手いのわかってるから」といわれたときは心底あせったけど。
だってスペイン語を専攻した人がみんなぺらぺらってわけじゃないもの。
そのくせ、スペイン語を使ってスペイン語圏の人達に御社の製品を売ってみたいです、
なんてえらそうに言うんだから困ったもんだ。
あと、あなたのチャームポイントは何ですか?と聞かれたときは、
何言ってんだこの人?と思いつつも「耳です。イヤリングにこってます」と
これまた、答えになっていないような答えをしたっけ。
いったい何を診ていたんだろう?
こんな調子でのほほんと面接受けていたので、落ちるはずと思って、留学資料を本格的に読み始めていた。
そしたら、電話がかかってきた。
「採用することが内定しました。ついては・・・」
私は受話器の向こうの声を聞きながら、頭が真っ白になってしまった。
そして、電話を切ると母にこう言ったのだ。
「うかっちゃったよ。どうしよう?」
で、次に言った言葉は、「そうだな、とりあえず、社会人になってみるもんだよね。」
今の世の中、新卒が就職することがとても大変な時代だというのに、いや〜なんてことを言ったものだろう。
でも、当時の私としては、たまたま友達に誘われ、
たまたまでかけた会社に、たまたま受かってしまったたまたま尽くしだったのだ。
これがご縁っていうものか?
まさか、そのメーカーにたまたま10年以上いることになるとまでは予想しなかった。
夫にこの話したら、俺だってインターネットで検索して
Aではじまる最初の会社にずっと勤めることになるなんておもわなかったよ、だと。
うーん、ご縁って不思議なものである。

 

◆研修◆
 
メーカーにめでたく内定し、その後もひたすらスペイン語圏で活躍したいと言いつづけたら、本当に中南米部というところに配属となった。
おっとその前に研修期間というものが1ヶ月あったっけ。
会社一般のことを教えてもらうために技術職の卵たちと合同で研修した。
今でも、そのうちの何人かとはやりとりしている。
1ヶ月のうちの二週間は、私は某電話会社向け国内営業で研修をした。
電話の受け答えからしてわけわからなかったなあ。
その業界およびその会社にしか通じない用語があるから、(事)=事業部だなんて知る由もない。
他にもDDF=電子伝票ファイル。なんで、日本語の略語が英語もどきなんだ?
あと、パソコンに大切なデータ入力を任されたのに、パソコンの扱いがわからなくて、全消去してしまい、平謝りして帰った翌日、課長とアシスタントの女性はやつれていたっけ。夜中3時までデータ再入力をしていたんだそうな。悪かった!
まだある。営業のお兄さんについてお客様のところで打ち合わせをしている最中、頭をゆらゆらさせながら居眠りした。お客様には「よく寝ていましたね」と笑われた。お兄さんは、「旧知の仲だから笑ってくれたが、営業中に居眠りだなんてもってのほかだ、ニ度と連れて行かない!」とあきられた。
おかげでその話を聞いた研修先の部長は、「君、大物になれるよ。夢を持ってがんばりたまえ、ははは」と言い、VSOPという言葉を残してくれた。
つまり、20代はVITALITY(体力)、30代はSPECIALIST(専門家)、40代はORIGINALITY(独創性)、50代はPROFESSIONAL(プロ)。
ブランデーは寝かせれば寝かせるほどおいしくなることにたとえて、言ってくれた言葉である。
今も時々自分が歩んできた仕事の路を振り返るとき、思い出す。

 

◆ひげうじゃうじゃ◆
 
研修期間後期、配属先が中南米部に決まったのだが、ここでもいろいろとあった。
まず、中南米部に足を踏み込んだとき、ひげがうじゃうじゃいるのに驚いた。
顔色が黒い人も多い。先にも述べたように、私は銀行面接ばかりしていたので、サラリーマンというのはみな
灰色か青のスーツにきちんとネクタイを上まであげている人ばかりだと思っていた。
なのに、その予想ははずれた。黒い顔にあごひげ、口ひげ、ネクタイはしていない人もいるし、
ピンクのYシャツきている人もいた。
で、みな電話越しにスペイン語をぺらぺらしゃべっているもんだから、こりゃ絶対日系人が多いんだと思った。
でも、実をいうとひげもじゃ黒子が日本人で7・3分けの頭にネクタイびしっていうのがブラジル日系人だった。
そして、そのひげもじゃ黒子主任について一時研修したときのこと。
まだ中南米部にきて1週間たっていなかった。
女子のロッカールームは二人ずつ割り当てられていたのだが、鍵を入れっぱなしでロッカーに貴重品バッグをいれておいたものだから大変。
相棒の女性がそうと知らずに先に鍵閉めて帰ってしまったのだ。
気がついたときは遅し、顔を真っ赤にして、ひげもじゃに事情説明し、帰る為の電車賃1000円を借りた。なんという失態だろう。
でも、おかげで、そのひげもじゃが怖い人でなくとってもやさしい人であることを知ったのである。
人はみかけによらない。
ちなみに後日知ったことだが、中南米に行くとひげのない日本人は若造にみえて交渉相手にされないのだそうだ。
だから、威厳を保つため、みな出張、出向すると男の人達はみなひげをたくわえ、帰国するとひげを剃るのだそうだ。
で、中にはひげが板についてそのまんまという人もいるということだ。
このような事情は中近東、インドなどでも同じである。
 

 

◆序列がわからない◆
 
研修中、私はいろんな失態を中南米部でもしてきた。
特に思い出すのは序列がてんでわかっていなかったことだ。
ある日、与えられた仕事(というより宿題だな)を終えて帰ろうとしたとき、
私は誰に帰る許可を得たらいいのかわからず、
とっさに、窓際で暇そうにしていた部長のところにとことこと歩み寄って、言ったのだ。
 
「あのお、帰ってよろしいでしょうか」
 
豆鉄砲食らったような顔をした部長、一呼吸おいてから静かに言った。
 
「そういうことは今度からXX課長に聞きなさい。」
 
私としては、XX課長が不在で他に言葉を交わしたことのある主任や担当がいなかったから、
研修先からはじめて中南米部に連れてきてくれた部長に尋ねるのが妥当だと思ったのだ。
でも、それは、周りの目を点にしたらしい。本人気付かず、
 
「はい、では帰らせていただきます。失礼します。」
 
と、部長に挨拶して帰ったのだった。
 
又、ある時、ペルーの内務省というところの案件を読んでいて、内務省の意味がわからなくて、
悩んだ挙句、XX課長のもとに聞きにいった。
 
「あのお、内務省ってなんですか?」
 
「なんで俺にそんなもの聞くんだよ、ばかもん!」
 
むっとした私、すかさず、
 
「だって、わからないことがあったらナンでも俺に聞けっていったじゃないですか!」
 
「た、確かにそうだが、内務省はちがうんだ。」
 
「じゃ、知らないんですか?」
 
課長頭かかえて、
 
「そうじゃない、自分で調べた結果はなんだ?」
 
「警察のようなものです。」
 
「じゃあそうなんだろう。もういい。席にもどれ。」
 
私は????????
周りの主任と担当は目が点になっていて、口挟む余裕なく、あきれていた。
この2つの話はのちのちまで語り草になってしまった。
それぐらい、私は序列というものがわからなかったのだ。
だって、矛盾しているではないか。
一方で、二年先輩の担当には、「部長とも渡り合えるように(交渉できるように)訓練しろ。
相手は同じ人間だ。そんなので怖がっていて営業なんてできるか。」と叱咤されていたのだから。
交渉レベルってあるのかと思っていたのに。担当なら担当。主任なら主任って。
おかげで私は長いこと混乱した。
でも、実力があれば、序列なんて関係ないのではないかって思うこともいまだにある。
主任や課長という肩書きがあれば、交渉するとき強みになるのも確かだから、
そういう点で序列を上手く利用するのも大事なんだろうな。
今はそう思う。

 

◆お茶くみ反対!◆
 
入社当時、まだ今のように紙コップで自動給茶機でお茶を飲むという風にはなっていなかった。
中南米部の場合、マイカップなるものを持参して置いておくのだ。
そして、女子のみが当番制で朝8時に出勤し、机をふいたり、ゴミ箱のごみを回収したり、お茶くみをしていた。
私は朝が弱い。
ただでさえ、会社の通常出勤タイムである8時半に行くだけでも至難のわざなのに、
どうしてそれよりも30分早くでないといけないのだ。
それも、男性陣の一人一人の好みを覚えていて、砂糖入り、ミルク入り、砂糖なし、両方入れ、ブラック、煎茶、
なんて分けてそれぞれのマイカップに入れるのだからもうわけわからない。
ねむいから間違えてばかり。
通路にあるゴミの缶をけとばしてこぼしそうになる。
なんでこんなところにゴミの缶があるんだとまた缶をけとばす。
するとごみがばらまけて、回収するのが大変。
というわけで、私は次第にお茶くみをさぼるようになった。
その事態に切れた最年長の女子に、ついに言われた。
 
「あなたみたいないいかげんな人と私みたいな几帳面すぎる人をかけあわせて
二分の一にした人がちょうどいいのかもね」
 
いやみだったんだろうが、私素直に答えた。
 
「いやあ、そうかもしれませんね、あはは。」
 
その女子はあきれかえってそれ以上何も言わなかった。
 
しかし、お茶くみについてどうにもおかしいと思った私はついにXX課長に直談判した。
 
「なんでみんな眠いのにそれも女子だけがお茶くみしないといけないんですか?
かわいそうです。男性も自分のことは自分でやればいいじゃないですか?廃止しませんか?」
 
「俺もそう思う。」といって、課長は何度も使ったと見える紙コップをみせた。
 
「じゃあなんで?」
 
「部長の好みなんだよ」
 
「え?そんなことで続けるんですか?!」
 
「まあ、我慢してくれよ。一時の事だからさ。」
 
もう何も言えなかった。
それからまもなくして、自動給茶機が導入され、お茶くみは廃止となった。
それでもいまだに会議にお茶を持っていくのは女子なんだけどね。

 

◆灰皿事件◆
 
まだ入社してまもない頃、小さな賃貸ビルのフロアで所狭しと仕事していた私達。
まだパソコンが導入されはじめたばかりで、しょっちゅうパソコンはダウンしして使い物にならず、
ファックスとコピーが主流の時代で、大事な書類はずべて壁際の狭い棚にファイリングされていた。
だから、ファイルしたくてもできない書類、今手をつけなくてはならない書類は社員の机の上に置かれた。
その上に回覧物が乗っかる。
みるみるうちに社員の小さな机は書類の山で顔がみえなくなるほどになった。
もちろん今でも書類整理の苦手な人の机は書類の山なんだろうが、当時の書類の山は今の比でないだろう・・・。
そんな中に喫煙室などというスペースを確保する余裕はなく、喫煙者はみな自分の机で灰皿をおいて煙草を
吸っていた。というと本当に灰皿をおいているように思われるかもしれないが、実を言うとそうではない。
灰皿を持っている人なんて誰一人としておらず、飲みかけの缶コーヒー、飲みかけの紙コップが吸殻入れと
なっていた。それも自分の机にあるだけならまだしも、パソコンの前、コピー機の前、といたるところにそれらは
置かれていた。
朝、お茶くみ当番でお掃除をしようとすると、吸殻とお茶とコーヒーがまじったきたない缶やコップ
が書類の山の隅っこから出て来たりして、驚くことしばしば。
書類にその吸殻の液体がこぼれて茶色のしみがつくこともしょっちゅう。
自分の書類だけならまだしも、私の机にある書類にまでひっかけられるものだから怒りは浸透した。
同期の喫煙者に、吸殻のにおいをとってくれるとテレビで言っていたコーヒーのがらをしきつめた
アルミ製の灰皿を差し出して「使え」といった。
開口一番「こんなものしきつめられたんじゃあ使えないよ〜」と同期だけでなく先輩からもブーイング。
それでもあきらめない私は毎日のようにその灰皿を各机に置いていった。
そして次に喫煙しない人がいる時間帯は机での喫煙を禁じた。もちろん、入札でアシスタントの
女性が残業時間に居残るときも禁煙とした。
しかし、禁煙をこころよく思わなかったのは平だけでなく課長も同じで、喫煙しない私の目の前で机で堂々と
煙草を残業時間に吸って見せた。それにはヒステリーをおこした私。
そんなすったもんだをやっていたある日のこと、時刻は残業時間、書類にむかって仕事に専念していた矢先、
こげくさい匂いがする。匂いはどんどんひろがる。誰もまだ気付かない。
なんだ〜と思って、匂いのするところをつきとめると、そこでは大変なことが起きていた。
書類の一枚に茶色い輪ッかができて中心から煙がたちのぼりはじめていたのだ。
ひぃ!火事だあああああああ!
私はとっさに自分ののみかけのコーヒーをばしゃっとその書類にぶっかけた。
目の前に座っていた同期男性がびっくりしておきあがり、「なにすんだよ〜!!!」と怒った。
「なにすんだよ〜はこっちのセリフよ」と応戦した私。
コーヒーでぬれぼそったこげ穴のあいた書類をもちあげるとそこには灰皿にてんこもりになった吸殻。
つまり、火の消えていなかった吸殻から火が書類についたのである。
ぶつぶつと「大事な書類だったのに〜」と嘆く男性社員を尻目に私はつかつかと課長に
歩み寄り、言ったのでした。
「危うく火事になるところでした。きちんと吸殻管理のできない人ばかりの残業時間は
やっぱり禁煙すべきなんです!!!」
さすがの課長も失笑。
以後、なんとか残業時間の禁煙は守られたが、吸殻管理はあいかわらずだった。
それから自社ビルに移り、全社禁煙になり喫煙室ももうけられたので、このような事件は起きなくなった。

 

泣かないで
 
入社して数年たっても、私の配属された部署は出張出向が絶えないところだったので
新たな人が次から次へと登場してわけわからなかった。
課長もあまり在席していなくて、私は二年目の先輩に預けられて仕事の特訓を受けていた。
相手も二年しかちがわないから、友達のような話し方でいろいろと教えてくれた。
でも厳しいときもあって、保証状の請求書を一枚ぱらっと渡して「ずっと眺めていろ」といわれたこともあった。
仕方なく半日その請求書を眺めて、電卓でなんの数字なのかたたいてみては計算して、
ため息ついてはんべそかいていた。
結局、帰る間際にどういう風に計算したらその請求書の数字になるのかおしえてくれたが。
また、先輩も忙しいものだから、「どこそこの部長におまえから話せ」と急に言われることもしばしばで
どう話したらいいのかわからずこれまたはんべそかいた。
営業はどんなレベルの人とも話せるようにならなければ売りこみできないんだぞ、と
かつをいれられたので必死に敬語をつかって話したおぼえがある。
そんな先輩が怖くて、しょっちゅう某商社の課長レベルのおじさまに
担当国であったペルーのお仕事内容を教えてもらった。
いま思えばその商社のおじさまはきっと課長あたりから面倒みてやってくれと言われていたのだろう。
でも先輩もかなり困っていたようだ。
本来なら主任以上の管理職が面倒見るはずの新入社員の指導を任され、
その報告をしようにも、問題が発生して選択を迫られたときにも、
肝心の課長は出張だの外出で席にいないことがほとんどだったのだから。
ある日、入札の準備をしていたとき、その2年先輩の男性は夜遅く誰もいなくなったフロアで
コピー機に頭をこすりつけていた。
私はいつものようにつまらない質問をしようとかけよったのだが、その姿をみて声をかけられず、
立ち止まってしまった。
いつもなら笑ってジョークをいうはずの先輩が声を殺して涙を流していたのだ。
とっさに思った。
きっと私ができそこないだから、指導に苦しんで泣いているのだと。
「先輩。泣かないで・・・。私、私、もっとがんばりますから。失敗多いけれどちゃんとついていきますから」
私は思わずそう口走っていた。
先輩はその言葉を聞くと、やっと顔をあげて言った。
「もういいよ。大丈夫だから。」
先輩の目は笑っていなかった。やはりそうだったのか?
先輩の仕事の苦しさに何もできない自分が悲しかった一件だった。
その事件から半年後、先輩は異動で部署を去り、私のお守は通常通り主任になった。
去るとき先輩は言った。
「おい、OO、がんばれよ〜。いいな。本当にがんばれよ〜。」
先輩は私が会社生活が長続きしないと思ったのかもしれない。
または長い会社生活に耐えろよとエールを送ったのかもしれない。
その後もときたま別の仕事にもかかわらず会うときがあると、
その頃をなつかしく思うのか、
「ああ、元気にしていたか〜?」と必ず声をかけてくれる先輩である。
その先輩がいなければ今の自分がいないのだと思うと本当にありがたく思う。
それはその先輩に限らず先に述べた商社のおじさまも然りである。
入社当時の指導されていた自分を思い出すと
”人は多くの人に支えられて生きているのだ”との理をひしひしと感じる。

 

初めての入札
 
私がまだ入社二年目の頃のこと。
ある日ボリビアという南米目の小さい国から通信機器を買いたいという話がM商社経由で舞い込んだ。
ボリビアってチチカカ湖があるところだっけという知識しかなかったから、
話を聞いてもピンとこなくて、先輩に「なんか買いたいっていってるけどやるんですかあ」と呑気なことを言った。
そしたら早速先輩に怒られた。「ばかもん!入札だったら国が小さくてもちゃんと取り組むものだ。」
ちなみに私はその5年上の先輩が当初苦手だった。というのも目がめちゃくちゃ怖い。
その先輩は当時出張ばかり行っていて日本にいないことが多くあまりお話もしたことがなかったので
尚更目があうと下を向いてしまった。席もわるかった。私とちょうど差し向かいに座っているのだ。
目が合わないほうがおかしい。
そんなものだから、常に私は仕事に集中しているかのように机を見ているしかなかった。
後年わかったことだが、その先輩は単に目がぎょろっとしていて人をじっとみてしまうくせがあると
いうことだけだったのだが。
まあとにかくなぜかその先輩と組んでそのボリビアの入札をやることになったから、さあ大変。
ど、どうやって話しをすればいいんだ、と思いつつもへらへらと先のようなことを言ってしまったから
ますます険悪なムード。
そこへ問題がまた一つ発生した。その入札、私の勤めるメーカーだけでは納められないというのだ。
そこで、「どこのメーカーが一緒にやるんですか」と先輩に尋ねたらM商社の系列のM社だった。
そのとき先輩が嫌そうな顔をしたのは見逃さなかった。なんでなのかはわからなかった。
先輩に言われて応札書類をのろのろと作り始める中、そのM社の担当と直接電話で話す機会があった。
なぜか電話番号は大阪06だった。
あれ?M商社は東京03なのになんでなのかなあっと思いながら応札書類の作成手順をお互い確かめ合った。
電話で聞く声は人のよさそうなおじさんだったのだが、東京にいくのは自分でない、と言っていた。
これなら上手くで仕事がすすめられそうだなあと思いながら書類作成していたのだが、二年目の私、
どうしても入札締め切りに間に合うスケジュール通りにことが運ばない。
その度に例の先輩ににらまれた。
「おまえいったい何回計算したら済むんだよ。ばか!」
あまりにもばかばかいわれるから次第に慣れてしまった。
ある日はついに先輩の堪忍袋の尾が切れて「できあがるまで帰るな!」と言われた。
確かにその次の日はM社とM商社と合同で応札書類を完成させる日であった。
びびった私。
一人ぼっちで巨大なビルのなかに取り残されるのか、嫌だなあ、でも仕方ないもんね、
でもよ、タクシー代もっていたかな云々、と考えながらやっていた。
それが又よくなかったみたいで、今は楽にEXCELなんていう計算ソフトがあるからいいけど、
当時は全部電卓で手計算だったから、計算能力にただでさえ乏しい私、
夜になるにつれてその能力がどんどん低下していって、
どうしても応札する価格の合計がたてよこ合わない。
こんなこと夜やるなんて無謀だと半分ふてくされていた。
黙って見つめる二つの目。
内心さっさと独りにして帰れよ、と思いながら冷や汗かいていた。
でも、なぜか先輩は帰らない。
だんだん周りの人が一人また一人と減って行った。
午前3時過ぎなら普通とっくに寝ている時間。
見まわりの警備のおじさんまで驚きつつ「おつかれさま」といっていなくなっちゃった。
へんな気分になってきた。
もしかして最後には二人だけになっちゃうの?
そういえば、私、女なんだよね。あっち男なんだよね。確かお互い独身だった。
それってどういう意味か。おそわれちゃう可能性ないわけないよねえ。
いや私は女だとは思われていないはずだ。
ナンで計算しているときにそんなことが頭に浮ぶの!と今度はそういうことを考える自分に腹がたってきた。
そんな場合じゃないだろうが。先輩ついに手を出した。
「ばか!おまえ電卓貸せ!」
すらすらと合計額を出していく先輩。あまりにも見事なので
「さっすが〜先輩ですね〜」
といったら、また
「ばかもんが!」
といわれた。
「・・・・・・・」
というわけで結局合計額をきちんとだしてくれてきれいに応札書類をつくったのはその先輩であった。
私は単に時間を食った2年坊主。
これが経験の差なのかなあって思いながらタクシーで居眠りしながら帰宅した。
あ〜何もなくてよかった、という安心感も、もちろんあった。
あとでわかったのだが、その先輩、直後に結婚発表を控えていたようで、
それも部内の私もよく知っている女性だったので、あえて女を避けていたようである。
だから、その晩、緊張していたのは私だけではなかったらしい。
それを先に言えよ、と思ったのはいうまでもない。
でも、部内結婚だったから本当に間近になるまでは部内にいる人にも内緒にするしかなかったのだろう。
翌日の夕方(なぜかいつも夜・・・)、M商社に先輩と二人で自分の会社の分の応札書類をかかえて出かけた。
日ごろから抜けている私は先輩に「変なことするなよ!」と言われた。
「変ってなんなのよ。変な安は変なことしかできないのだから仕方ないでしょ」とつぶやいたら又にらまれた。
これで何回にらまれただろう。しかし、本当に私は変だったらしい。
どういう意味かというと、私が女だったから。
M商社に着いてまず目に入ったのは制服姿の麗しき女性陣。
なんともけばい化粧だなあと、横目で見つつ、私は合同作業をする部屋に入っていった。
いつも電話でお世話になっていたM商社のおじさんはダンディなひげをはやした人だった。
中南米の仕事なんてやっているとひげばっかりに遭遇するんだよね、と、
他の商社や自分の会社にいる面子を思い浮かべた。
そのおじさんに、にこやかに「こちらですよ」といわれて入るなり、いきなり目があったおじさんがいた。
なんとなくこの人は以前06の番号で話した人ではないようだと感じた。
そしたらぶっつけ、むっとすることを言われた。
「どうも。あれっ?女の部下ですかい。」
その響きどっかで聞いたことあるぞ、関西弁だ。一瞬先輩が以前見せた憂鬱そうな顔を思い出した。
関西=こてこて漫才=秀吉のどはでな金きら茶室=絶対ひかない=どけち=堺商人。
確かに東京とは違う雰因気。
とはいえ、この人たちと一晩ご一緒するのだからそんな先入観を持っていたららちがあかない。
カルチャーショックを受けている場合ではない。ボリビアが電話を待っているんだから!
というわけで、
「そうです、女です。XXです。よろしく!」と威勢よく出た。
「えらい、げんきやなあ。よろしゅうたのんまっせ」だって。
確かに元気しかとりえないもん。計算ろくすっぽできないもん。
でも、そんなこと言ってられないから真剣に交渉した。
先輩が横で目を白黒させていたのがわかった。
M商社のダンディおじさんも、まあまあ、といって仲介する按配。
「あんたさ〜。そりゃ無理ですわ。うちらに合わせなさい」
と、うちわで顔をあおぐおじさん。
「いいえ、そうはいきません。これを値引いたらばかをみます。」
とだんだん図に乗ってきた私。
自分が関西人みたいに一歩もひかなくなってきているのがわかった。
私、東京生まれの東京育ちなんだけどなあ。いややっぱり関西も東京もおんなじなのかなあ。
こうして白熱した議論の末、うちわをぱちっと閉じるとそのM社のおじさんは言った。
「あんた気に入った。おもしれえ奴だ。今日の夕飯うちらがおごる。」
「それはいけません。折半でするものです!」と私。
「ははは、ますます面白い。寿司にしましょ。なんでもいいでっせ。」
「でもですねえ・・・・。」
そこへ先輩とM商社のおじさん。
「せっかくのことですからいいじゃないですか。」
仕方なく私は言った。
「じゃあ一番下ので結構です。」
「ほんまにそれでええのか。上でもええぞ。」
貸しをつくりたくなかったから私はそれでいいっとうなずいた。
そしたら、先輩に又にらまれた。
なんで??
それから私はそのおじさんにしつこく尋問された。
どこの出、どこの大学、どうしてメーカーに入った、などなど。
まるでこれでは就職試験と同じじゃないかと思ったけれど、私もおじさんに言いたい放題言っていたので
口は悪いけど結構いい人なのかもしれないと思った。
そんな感じで寿司を食べて、化粧室に出て行った。
化粧室に入ると、驚くべき光景があった。
さっきのけばい制服のおねえさま方(いえ、見目麗しい女性陣のはず)が
化粧室でもくもくとたばこを吸っていたのだ。
おかげでいまにも火災刑法探知機が鳴るのではないかと思った。
赤いべっとりとした口紅に煙に制服。どうみても不良少女にしかみえなかった。
ここは会社なんだけどなあ。半分げほげほさせながらそこを出た。
そしたら、さっきまで煙をはいていた女性がばっちしメイクで
コピー機のところで男性社員にこびを売っていた。
女はわからない。自分が女であることを感じながら、怖い、と思った。
私は絶対あんな裏表の激しい人にならないもんね、とも誓った。
今もそのM商社の女性はそんな感じなのだろうかとふと思うが、縁が切れたからわからない。
ところで、深夜の帰りのタクシーの中、先輩に思い切りこづかれた。
「さっきのはなんなんだよ!ばっかだなあ、おまえ」
又ばかと言われた。
「何がですか?」
「なんで寿司を上にしなかったんだよ!ばか!俺は上が食いたかったんだ。」
こうして、私のボリビアの入札の件は終わった。
勝ち負けがどうなったかは覚えていない。
2年坊主の私がやったことだから、負けたのではないかと思う。
勝っていたらあの関西おじさんと仲良くボリビアツアーにでもいけたのかなって思うと
半分惜しくて半分よかった〜と思うこのごろである。
◆電話が通じない−ボリビアの通信事情−◆

乞うご期待!

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