お金の本質(マタイによる福音書)


今日、来年以降の収入と支出の見込みを計算した。

どう考えてもこれから15年以上、70歳まで続く娘達の学費ローンを払いきるのは難しいし収入の見込みが全然ない。

そう考えた途端に強烈な不安が襲ってきた。

そして、悩んで悩んで頭を抱えて、とても良い言葉を思い出した。


そう。実はお金の本質とはただの数字である。

お金の本質は「ただの数字」だという主張に行きついたのは、1兆円の資産を持っている会社の会長の影響がかなりある。

あの人には1兆円を消費する権利があるが、1兆円分の努力や勉強や仕事はしていない。

結局のところ、ただの数字が独り歩きして膨れ上がったら1兆円になっていた。ということだろう。

1人の人間が5千人分の生涯賃金に相当する資産を持つとか、どんなに大きな借金も自己破産すればチャラになるとか、ギャンブルや資産運用で増えたり減ったりするとか、本当にただの数字としか言いようがない。

それが増えたと言っては喜び、減ったと言っては嘆き、足りるだ足りないだなどと無用な心配をしているだけである。

そんな心配をしなくても、必要なときには必要な分だけ、どこかから自然にわいてくるのがお金というものである。


それと同様のことを2000年前に言っていた人がいる。

それはキリスト。あまりにも有名な言葉、真実の言葉なので原文をそのまま紹介する。


新約聖書 マタイによる福音書

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。

あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。

また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。


----------解説----------

これは2000年前に明日食べるものの心配をしていた人達に向けた言葉であり、現代の日本に住んでいる自分達にとっては何も心配することなく余裕で手に入るものである。

それを5年後、10年後、15年後に払う金がなくなると心配しているとは人間とはなんと愚かなんだろうと思う。

そんな心配をしなくても、必要なときには必要な分だけ、どこかから自然にわいてくるのがお金というものである。

なぜなら本当に、お金とは「ただの数字」に過ぎないから。


最近、会社の役員達が全社員宛てに勝手に喋りまくる動画を配信している。

あまり興味のない話が多いが、その中でちょっと気になる言葉があった。

「必要な人は、必要な時に、必要なところに現れる。」という言葉である。

これはキリストや私の考えと共通しているところがあり共感が持てた。


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